kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

未だ悪夢を見る

久々に外泊有りの出張中1である。とはいえ今日はもう帰るだけだが。

昨日の夕方に出張の用務は完了し、食事をして土産も買って、20時頃にはやる事が無くなった。疲れてもいたし、久々に早めに寝るかと思って寝床に入る。最近は寝不足続きなのもあって即寝落ち。ただ、久々の早寝に加えて慣れない寝床だからか、三時間毎に目覚め、今は丁度三度寝から目覚めた所である。

最初の三時間は良かった。しかし、二度寝・三度寝の際は久々に悪夢を見た。大学研究室で指導教官に詰められる夢である。大学研究室を離れてもう数年経つが、夢を見る時2は、シチュエーションは細かく違えど常にこの夢である。とても生々しい夢であり、心臓をバクバクさせながら起きた直後は、それが夢で現実ではないという事を意識するのに少し時間がかかる。寝不足は辛く体調に堪えるが、十分に寝たなら寝たで悪夢を見るようになる。良い落とし所はあるのか。

今はここしばらくの寝不足が祟ってまだ眠い。時間にはもう少し余裕があり、寝付けそうでもあるので、四度寝を試みる。


  1. 子供産まれたばかりであるにも関わらずそんな事をしていて、妻には大変申し訳ない。
  2. 正しくは、見た夢を覚えている時、という事か。

折れた心でリチャード・ハミング博士の"You and your research."

リチャード・ハミング博士は、コンピュータ屋の界隈では情報理論・符号理論に関する偉人として知られている。氏の成果の有名どころとしては、ハミング符号、ハミング距離、ハミング窓関数等が挙げられる。 ja.wikipedia.org

氏の講演"You and your research."の講演録を初めて読んだのは大学学部生の頃だった。当時は、研究室での活動が純粋に楽しくて、丁度初めての国際学会発表をしていた頃で、その時に読んだこの講演録には只々格好良さと「こうありたい」という憧れを感じるばかりだった。その後大学院に進学し、その中で心が折れ、今は学術研究から離れた世界で仕事をしている身として、改めて同講演録を読んで思うことをつらつらと書いてみる。今になってこれを読むのは、何と言うか、精神的な意味で一種の自傷行為であったようにも思うが。

講演録の原典は以下で公開されている。 www.cs.virginia.edu 日本語訳も様々なものが見つかる。私が初めて読んだのは、以下の今津氏による日本語訳であった。本エントリも、この今津氏訳を元に書き進める事にする。 archive.himazu.org

尚、同講演録については、私にとっては自傷行為などと言ってはいるものの、研究者を志す人ならば必ず読んでおくべきものだと思う。

情熱と傾倒

「私がまだプロレスを志してすぐの頃 私にはプロレスしかなかった」 「いや 自分にはプロレスしかないんだと思い込んでいました」 「実際は社会に参加することが怖くてプロレスに逃げ込んでいたのかもしれません」 「そうしたらある日気が付いて」 「本当に自分にはプロレスしかなくなってしまっていたんです」 --小林銅蟲 寿司 虚空編 三才ブックス

私には、この「寿司 虚空編」の登場人物「メの字」1の台詞が強く刺さる。

本講演におけるハミング博士の主張の一つに、偉大な研究を成し遂げるためには、その研究に対する情熱・傾倒が必要であるという事がある。それは生半可なものではない。無意識すらも研究の事を考え始める、即ち意識の中では常に研究の事を考え続けている程の傾倒が求められている。成果は複利であり、この傾倒の有無が最終的には極めて大きい差を作り出す。

その点で私には、上記の研究室活動が純粋に楽しかった時期においてすら、それ程までの傾倒は無かったように思う。サークル活動もせず、授業の空き時間や授業後の夕方〜夜には研究室に入り浸るという生活は、周囲の学生と比べればかなり研究に振り切ったものだったろうが、それでもハミング博士の言う段階には至っておるまい。一人暮らしのアパートに帰ればゲームなどして過ごしたりもしていて、それを変える訳でもないのに、上述のようにハミング博士の講演に憧憬を抱くなど、今思えば自己矛盾も良いところである。無論、ハミング博士の主張は研究以外に何もない人間になれというものではない。しかしそれでも、今から思い起こすに、私の傾倒は不十分だったのだと思う。

博士課程在学中にメンタルが挫けていた頃、ある時フランクに指導教官と話せるタイミングがあり、ふと「学部生の頃の私は何故あんなに元気に取り組めていて、論文を書く事まで出来ていたのでしょう。」と、半分以上が弱音の問いかけをした2事がある。指導教官からの回答は極めて単純明快で、学部生の頃は自分3がかなりサポートしていたから、であった。とても腹落ちする回答4だった。あの程度の傾倒具合で成果を出せていたのは、そのような下駄を履かせていただいていたからである。逆に言えば、その頃の私は、研究活動が面白いなどと宣いながら、真の意味でそれに傾倒していた訳ではなかった。本節冒頭に引用した「メの字」と同様な存在であった。

勇気

加えて思うに、当時の私の研究に対するあたり方、その動機もまた不純であった。当初は純粋に研究ネタが興味深かった5。そしてそのうちに、自分が成した事が認められる事への嬉しさが動機に加わった。それは具体的には、査読付会議への採択や論文の採録である。無論、採択・採録される事単体で研究の価値が証される訳ではないが、少なくともそれらは形を残すという点で分かりやすくはある。しかしこれを逆に捉えれば、それら分かりやすく形のある成果を出せなくなった時に、上述したように容易にメンタルが挫けうるという事でもある。

上掲の講演において、ハミング博士は研究者の勇気について触れている。重要な問題を解決出来ると信じて考え抜ける勇気であり、研究者に必要なものであると述べている。その勇気は必ずしも最初から持っているものとは限らず、一度の成功から得られる自信が、その後の研究活動における勇気の源泉たる事もある。氏は講演でその実例を二人紹介している。

当時の私の自信の如何に脆かったことか。上述の研究活動の動機に紐付いて私の研究活動における自信の源泉であったもの、即ち認められること、平たく言えば対外発表の採択・採録は、「自信」を「自ずから信じる」と読むなら、他者の評価に依存しているという点においてそもそも自信ではなかった。その脆弱な基盤の上に、ハミング博士が講演で述べるところの勇気は持ちえなかった。それに気付いたら、まさに上掲「メの字」が言うところの、それしかなくなってしまっていた、という恐怖感がやってきた。

その視点から振り返ってみれば、指導教官の佇まいには、研究上の課題について必ず解決できるという自信、もしくは必ず解決するという執着に近しい何かがあったように思う。それらは勇気を必要とするもので、私とは違ってそれをお持ちだった。この「私とは違って」というのも言い訳である。指導教官はその類の弱音には嫌悪感を持たれていて、そんな事を考える余地は存在せずただがむしゃらに取り組むしかない、というような事を言われた。それは全くその通りなのだが、それが出来ないという話で、私は挫けた。指導教官からすれば、自分が達成せんと無限の勇気で取り組んでいる研究室活動においてそのような腑抜けが足を引っ張っていた訳だから、私への当たりがキツくなるのも宜なるかな

普遍性がある

ハミング博士の同講演では上記の他にも様々な事柄について触れているが、研究者くずれの私の身に特に強く刺さる凶器は上述の二点である。ここまで書いてみて、この書く行為もまた、やはり自傷行為だったように思う。正直に言って、改めてめげている。

一方で、上述の二点にしてもそれ以外の内容にしても、ハミング博士の主張はまさにその通りだと感じることには今も変わりはない。学部生の時に感じた、本講演が持つ燦然たる格好良さは色褪せていない6。そしてこの内容は、研究活動に限らず、課題解決に創造性を要する様々な仕事に共通に成立する普遍的な原則であるようにも感じる。学術研究のような先進性はないにせよ、今でも多少はその傾向がある仕事をしている身として、時折思い起こしたいものである。

余談 ー それでも逃げる選択肢

ただ、このハミング博士の講演の内容に忠実であろうとすると、物事から逃げられなくなるという問題がある。学術研究の世界を去った、というよりそこから逃げ出した身が言うと自己正当化にしか聞こえないが、逃げずに留まり続けて挫けて病むくらいだったら、早々に逃げ出した方が良い場合もある。病んでいるうちは何の成果もない。少なくとも私は、もっと早いうちから逃げる事を選択肢に入れておくべきだったとは思っている。

逃げているばかりでは大きな成果を成し遂げる事は出来ない。これはハミング博士の講演内容からしても明らかである。大学院時代に指導教官から散々言われた事でもある。しかしその一方で、逃げずに踏みとどまった結果として病んでしまっても同様である。その匙加減がとても難しい。


  1. 作中で、リングネーム「綿花製品・アストラル・気持ち・御覧下さい・仮面」を略してそう呼ばれている。
  2. 「した」というより、「してしまった」とも言えよう。
  3. つまり指導教官。
  4. 同時に、更にメンタルを折ってくるものでもあった。勿論、指導教官に私のメンタルを折る意図は無かっただろうけれども。
  5. 上述の通り、今から思えば補助輪付きだった訳だが。
  6. 眩しすぎて直視できなくなった、とも言える。

電車平仮名カード

電車好きの自閉傾向長男に平仮名を覚えさせようと、随分以前に作ったものの紹介。

お手製電車平仮名カード、山手線の部。子供らには「ひらがなカード」と呼ばれている。

自閉傾向長男の療育の中で、PowerPointのスライドにひらがなを大きく表示して見せて、声と合わせてその読みを教えたり、三文字程度の単語を読むか読ませるかしながらその対象の写真を切り替えて見せたりする事で、ひらがなを読む能力を獲得させんとするものがあった。継次的刺激ペアリング手続き、と呼ばれる手法らしい。ただ、長男の反応は正直な所いまいちであった。これに対して、長男の好きな主題で似たようなものを作ったら好んで取り組んでくれるのではないかと思い立った。

長男が明確に好きな主題と言ったら電車である。それも新幹線ではなく、在来線、しかも普通列車用車両を好む。関東圏のJR沿線に住んでいることからJRの在来線車両を見る機会がよくある他、本を見せて教えた1結果もあり、見た目に区別しやすいJR東日本普通列車用車両については概ね路線名を言える。これを題材にしない手はない。

作成過程

カードは以下のように作成。

  1. 扱う路線を選定。長男がよく知っている路線の他、JR東日本管内の路線をいくつか選ぶ。今回は分かりやすさのため、濁点・半濁点・捨仮名を含まない路線名に限定。また、見た目で区別出来るように、その路線に固有のデザインの車両を持つ路線に限定。
  2. 当該路線を走る普通列車用車両の写真を選定。Wikimedia Commonsから調達2する。
  3. 右半分に同一サイズにトリミングした電車の写真、左半分に平仮名一文字のPowerPointスライドを作る。山手線であれば、同じ写真で「や」「ま」「の」「て」「せ」「ん」の六枚を作成。フォントは将来の書字への発展を期して教科書体。
  4. A4用紙に印刷してラミネータにかける。パンチで穴を開け、路線毎にリングで束ねて出来上がり。

作成したスライドをPDF出力したもの3は以下である。利用している写真素材のクレジットもPDF中に記載している。

まず試しに作ってみた、ということもあり、全ての平仮名を網羅している訳ではない。「を」は流石にどうしようもないとしても、濁点・半濁点・捨仮名を除外する縛りが案外とキツい。以下ページを参考に路線をピックアップした。 www.chikipage.net 上掲スライドに含まれているものでは、例えば青梅線4などはかなり厳しい。中央線を知っている長男は、最初見た時に当然「ちゅうおうせん」5と言ってきた。「先頭にこの黄緑の丸6が付いているのは青梅線」と言って丸め込んだが、鉄道に詳しい方に聞かれたら怒られるに違いない。他にも、羽越線米坂線辺りは全く自信がない。自信はないが、その辺も入れないと平仮名の幅が増えない。

その他、作って利用してはいるものの、紛らわしさがあるので上掲のPDFからは除外している路線もいくつかある。例えば大船渡線7である。キハ100系の写真を入れているのだが、キハ100系、同じ塗装であちこちのローカル線を走っているせいで、それら他路線を選定できなくなってしまった。 ja.wikipedia.org

実際に使ってみて

カードの見た目の長男からの第一印象はとても良かった。長男向けに作ったものだが、次男にも気に入られた。好きな電車の写真を大きく載せているのがやはり良いらしい。今でも時々、二人とも「ひらがなカードやる」と声を掛けてきてくれる。

まず最初に行ったのは、私の方が一枚ずつカードをめくりながら、対応する平仮名を一文字ずつはっきり読み上げる事である。冒頭掲載の山手線の部であれば、まず最初に「や」と言い、素早くめくって「ま」、まためくって「の」、、、と言った具合である。この時、少し大袈裟なくらいはっきりくっきり、大きめの声で読み上げる事が重要だと思う。その話は以前のエントリにも書いた。もちろん、子供らが写真だけでなく隣の文字にも目線を向けているかは意識しないといけない。

次の段階は、この一文字ずつの読み上げを私と子供らで一緒に行う事である。題材が子供らの大好きなものだからか、この段階にはすんなりと進む事ができた。さらにそこから進んで、私と子供らで交互に一文字ずつ読んだり、さらには私が一切読まなくても、促す事で一文字ずつ声を上げる事が出来るようになった。

ただ、この段階に来て長男と次男で差が出てきた。現状の様子から述べると、丁度満三歳になったところの次男は、この電車平仮名カードに含まれていないものも含め、概ね全ての平仮名が読めるようになっている。電車平仮名カードをやっているうちに、平仮名を読む事自体にも興味が出てきたようで、下掲の平仮名と電車の本を妻や父8に読んでもらって概ね覚えてしまったようである。たまに「き」と「さ」を間違えたりもする9が、その間違いが出るという事はつまり、場面で音を覚えているのではなく、ちゃんと文字を読んでいるという事である。

一方で長男は、まだその段階には到達していない。最近、カードをめくる時に文字ではなく写真の方に視線が向いていて、文字を読んでいるというよりも知っている電車の名前を読み上げている、即ち先の表現で言うところの「場面で音を覚えている」節がある。文字を読むことにはまだ興味が薄いのだろう。ただそれでも、頻出する文字10や、特に好きな路線の文字であれば、文字だけでも読めるものもあるので、一定程度の効果は出ているように思う。

今は、先の使い方に加えて更に、カードの左下に小さく書いておいた単語としての路線名を読ませる、ということも時々試している。次男については、文字を読むことから更に進んで、文字の連なりを順に読むことで語や文になる事を理解させるのが目的である。長男については、上述の通りカードをめくりながら路線名を一音ずつ読むという場面を覚えてしまっている節が見受けられるので、今一度文字を意識させるため、やり方を変えてみる試みである。


  1. 親である私自身も、鉄分が濃いとはとても主張出来ないものの、鉄道が好きなので。
  2. 有り体に言えば、Wikipediaの当該路線記事から良さそうな写真を見つけてきた。記事更新により今は当該記事から参照されていないものもあるが。
  3. 公開用の注意書きを付けてある。
  4. 「め」が欲しかった。
  5. 尚、中央線は捨仮名「ゅ」を含むので除外されている。
  6. 「東京アドベンチャーライン」のヘッドマーク
  7. 「ふ」と「な」が欲しかった。
  8. 私の父、即ち子供らにとっては祖父。
  9. 間違いに気付いて自分で訂正することもある。
  10. 例えば「せ」と「ん」

負に正を乗じると負が増す

大学生の頃、「教科書や授業などによる旧来型の学習は人の知識を加算で増やし、ウェブは人の知識を乗算で拡張する」という事を言っている人がいた。ここでいう「ウェブ」は、検索エンジンを使って何かについて調べる、という事を主に指している。この発言が誰のものだったのかは思い出せない。その人も、別の誰かからの聞きかじりだったのかもしれない。

これは盲目的にウェブを礼賛する話ではない。加算に対して乗算というと、そちらの方がより効率的に知識を増大させるものだと聞こえるかもしれない。確かにその側面もあるが、その一方で乗算とは、0に何を乗じたところで0のままだし、負に正を乗じると余計に負が増すものである。その特徴まで踏まえての、冒頭の発言なのである。今時の流行りも含めれば、生成AIに質問して答えてもらう、という事についても同様の議論が成り立つだろうと思う。

「何が分からないのかが分からない」

何か分からない事ついて調べるにあたって、ウェブ、ひいては検索エンジンを使うというのは今日日ごく当たり前に行われている事である。最近であれば生成AIもまた同様である。これらは、何が分からないか特定出来ていて、さらにそれを言語化することも出来ていれば、極めて強力なツールである。分からない事が解消されれば、出来ることが増える。出来ることが増えれば、その中でまた分からない事が出てくる。それが解消されれば、、、と繰り返していく事で、出来ることを主体的にどんどん増やしていける。まさに複利のよう、乗算的アプローチである。

ただしこれは、本節冒頭の条件「何が分からないか特定出来ていて、さらにそれを言語化することも出来ていれば」の話である。実際にはこれが結構難しい。プログラミング入門の非常勤講師時代の肌感覚を思い起こせば、何が分からないかを分かって質問してくる学生は相当に優秀である。そのような学生には少し指針を示してやれば、自分で講義資料を見返したり、それこそウェブ検索したりして、自力で疑問を解消できる。実際には、何かが分からなくてプログラミングの手が止まってしまった学生の大多数は、何かが分からないことは分かっているものの、それが何なのかは分かっていない。講師であるところの私、すなわち教えていることの全景が見えている側から彼らの話を聞いたり様子を見たりすると、どこが分からなくなっているポイントなのかは一目瞭然に分かるのだが、当事者からするとそれが見えていないのは普通1である。

だからこそ、学習しようとしている対象の全景が見えてくるまでは、その全景が見えている立場が学習者に寄り添っていることが必要であると思う。典型的には教員がそれにあたるだろうが、別に必ずしも人である必要はない。人である事の利点は、上記のように何かが分からなくなった時に雑な質問が出来る事である。それを脇に置いておくなら、全景が見えている立場からまとめられた教科書・入門書でも良い。その点では、ウェブ上に掲載されている教科書的・入門書的コンテンツでも良いと思う。それは、同じウェブという媒体上であっても、検索エンジンで何かを単発で調べる、という事とは違う。ただ、教科書・入門書にも良し悪しがあるので、それを見極める審美眼は必要である。で、そんな審美眼が入門段階で備わっているわけもなく、と思えば、まずは先達に頼るという意味でも「人」の利点は出てくる。

情報の審美眼

そして情報の審美眼という点では、教科書・入門書にも良し悪しがある位なのだから、ウェブ上の様々な情報についても玉石混交であることは言わずもがなである。このことには以前のエントリでも触れた。

このエントリを書くにあたって、試しに「HTML 文字を動かす」というキーワードでGoogle検索してみた。今はあまり見かけなくなったが、一昔前のウェブページではよく見られた、電光掲示板風に文字を流して表示するアレである。その時得られた検索結果の一つ目は、marquee要素の解説ページであった。最近のウェブ周りの事を知っている人には当然の事であろうが、現行最新のHTML仕様では、このmarquee要素は非推奨である。同様の見た目を実現するには、今の考え方ではCSSで諸々指定するのが筋である。無論、検索結果を辿っていけば、その方法を解説するページも出てくる。また、最近のGoogleには検索キーワードに対して生成AIによる解答を表示する機能もあるが、そちらはmarquee要素を使う方法とCSSで実現する方法を併記2してきた。

ウェブ上の様々な情報は、それが作られたのがいつであるかを問わず、ある意味それぞれ平等に存在している。marquee要素は、かつては極々一般的に用いられるものであった訳だが、その時代に作られた情報と、現行の標準に基づく情報との間に区別はない。何なら、このように「かつては正しかった情報」と「最新の情報」の区別以前に、「正しい情報」と「誤った情報」の区別すらない。それらは等しくウェブ上に存在することができ、さらに、検索エンジンでどのように表示されるかという点においても、正しいか否かなどという事は評価軸にはならない。生成AIもまた、既存の膨大な情報源の統計上に回答を生成しているに過ぎず、その回答及びそもそもの情報源が正しいか否かなど考えていない。

そのように数多の情報源が存在しうる場においては、低品質な情報はいずれより多数の高品質な情報により淘汰される、という考え方はあると思う。この集合知的アプローチの実装例の最たるものはWikipediaであり、統計に依っているという点において生成AIにも通じる。そしてこれがある意味限界でもあり、個別の情報の信頼性は担保しようがないという事である。無論、ウェブ以外の情報媒体であっても同様の事は当てはまるが、万人が情報を発信できかつ情報の鮮度や正しさに対する責任を問う者もいないウェブという場においては、殊に顕著である。

負の増幅

そのような中で、特定の物事について前提知識を持たない人、即ち審美眼を欠く人がウェブでの情報収集を介して、逆によりおかしな事を信じる方向に振れてしまうという事が起こりうる。これが即ち、冒頭でも述べた「負の前提知識」が乗じられてより増幅されるという状況である。

先の「HTML 文字を動かす」の検索の他に、一般に疑似科学エセ科学の産物とされている製品や概念いくつか3について、その名前をGoogleで検索してみた。ある意味当たり前であるが、それらを販売・提唱するウェブページが検索結果上位に表示されるし、AI機能はそれらの効果として主張されている事項をまとめて表示してくる。上述の通り、それらの情報源が科学的方法論に則っているか否かなどという事は検索エンジンや生成AIにとって範疇外のことであり、そこには検索エンジン最適化の妙技が働くのみである。しかし、科学的手法の心得や関連分野の基礎知識なしにそのような情報に直面した時に、それらを無批判に信じる方向に人が流れてしまうという場面は容易に想像しうる。

もう少し当たり障りのない話題としてmarquee要素の話に戻ろう。そもそも「HTML 文字を動かす」というキーワードによる検索それ自体が、今時のウェブページの作りの考え方からして不適切なのである。今日の整理においては、HTMLは文書の意味的構造を記述するものであって、文字を動かすなどといった見た目の制御を行うためのものではない。見た目の制御はCSSを使って行うのである。その原則を分かっていれば「HTML 文字を動かす」などという検索キーワードはあり得ず、代わりに「CSS 文字を動かす」などとなろう。そのように検索すれば、marquee要素の解説など出てこない。これもまた、十分な前提知識を持っていれば良い情報に行き着く事が出来るが、そうでない=「HTML 文字を動かす」などと検索してしまうようだと、その負の前提知識を増幅してしまう=marquee要素に辿り着いてしまう4、という具体例である。

確たる知識基盤を持つべし

もちろん、十分な前提知識を作るというのは大変な事である。それには冒頭で言うところの加算的学習アプローチが必要であり、その教科書的に勉強するというアプローチには一定の負荷がかかる。ただ、そこを安きに流れてしまう事のデメリットは述べた通りである。即ち、何が分からないでいるのか分からずに物事を進めてしまい、その結果として得られた歪5な知識が負の方向に増幅されてより歪んでいく。一方で、冒頭でも述べたが物事について調べるにあたって、前提として確固たる知識基盤を持っている上で使いこなされる検索エンジンや生成AIは極めて強力なツールである。その正の相乗効果は、最初の加算の負荷を投じて尚、それを十分に巻き返しうるものだと信じる。

それを見越して、最初のうちはある程度の負荷がかかる学習は受忍しなければならない。


  1. だからこそ、何か分からないことがあったら、それを上手く説明できなくても良いから気軽に質問してね、ということは常に言っていた。教員に気軽に質問できる空気感は大事だと思う。仮にその質問が、教員の助けなしに学生自身で何とか出来そうなものであったとしても、その指針を示して学生自身にやらせるよう指示すれば良いのだし。
  2. marquee要素の利用は推奨されないという事も示していたので、まあ及第点か。しかし今日日、marquee要素を紹介する事自体、時代錯誤ではあるが。
  3. 変なリスクを背負いたくないので具体名の紹介は避ける。この逃避もまた迎合であり望ましくないが。。。
  4. CSSアニメーションで文字を動かすより、marquee要素を使ってしまう方が短期的には簡単であるということも、その傾向に拍車をかける。
  5. 「歪」(いびつ)という文字を改めて見てみると「不正」で出来ている。本当に良く出来ていると思う。

意図的コンテキスト放棄

先日、これまでの複数エントリで時々触れている自閉傾向の長男の発達検査のために児童相談所に行ってきた。目的は療育手帳の更新である。改めて考えてみると児童相談所の業務の幅は広い。

発達検査の結果では、実年齢五歳半近くに対して二歳七ヶ月相当という事で遅れ有り、療育手帳は再発行となった。とはいえ結果説明を聞いた所、ここ最近の伸びは結構正確に捉えられているようであった。それは、本人について我々親が感じる「伸びてきている感」にも合致している。そもそも、二年前の療育手帳発行時には最後まで検査を完遂出来ずに測定不能であったという事を思えば、極めて大きな進歩である。そんな発達検査であったが、結果説明において、ああ成程、と思った事があるので、ここに明文化してみる。

抽象概念理解

長男が苦手とする問いの分野として、何かしらの状況への対処、また抽象的な概念の理解があったとの事である。具体的な問いとしては、例えば「喉が渇いたらどうする?」という問いには何も答えられなかったという。尚、この問いへの想定回答は「水を飲む」である。

長男は、水を飲みたい時にはその旨を「お水飲む」と言葉で主張できる。これは具象の動作・行為を表す言葉である。一方で、確かに「喉が渇いた」という言葉は長男のボキャブラリには無い1。これは目には見えない状況を表す言葉であり、「水を飲む」と比べると、視覚に依らない感覚を表しているという点が異なる。それは外部から観測できないか、観測出来るとしても難しい個々人の内的な感覚であり、比較的抽象度が高いといえる。抽象度が高い概念の理解が具象の事物の理解よりも難しかろうという事は、容易に想像がつく。その点で、抽象概念の理解有無という視点が発達検査に含まれているのは道理であろう。

一方で、そんな事を考えている傍ら、この「喉が渇いたらどうする?」という問いに答えられなかった、という話を聞いた時に単純に思い至った他の考えとして、そもそも我々家族は「喉が渇いた」という旨の主張を口にする事がほぼ無いな、という事がある。大人同士での会話においてもそうだし、件の長男を含む子供らに問いかけるときも「お水飲む?」といった聞き方で具象行為について質問している。

大人はコンテキストを共有している

例えば私と妻との間で、どちらかが「水を飲んでくる」という言葉を発したとする。これはよくある場面である。そうすると我々は、相手が「水を飲む」という具象行為に向かっているという事を理解するだけでなく、「喉が渇いている」であったり「離席するのでその間の子供の相手等を頼む」といった言葉としては表面化していない意図の存在も同時に理解する。そのような共通の文脈・コンテキストを我々が共有しているからである。

もしくは上記例において「水を飲んでくる」という発言をしたのが私である場合、かつその場に私と妻しかいない場合、さらに私の口調が戯けている場合、妻は上記の意図に加えて更に「私が飲もうとしているものが実際には牛乳である」事を察するだろう。私は水の代わりに牛乳を飲むほどに牛乳が好きで、冗談で「『牛乳は水』教」2という表現をしている。無論、混乱を招くだろうから子供の前では絶対に使わない表現であるが、むしろそれ故、上掲の場面であれば妻には意図が伝わる。私と妻の間で、そのコンテキストが共有されているのだ。

牛乳の件に関しては最早言葉遊びであり極端が過ぎるが、前述のコンテキストについては一般的にも通じるだろう。このようなコンテキストの事前共有によりコミュニケーションは効率化される。即ち、直接に音声伝達される情報量を減らす事が出来る。中でも具象概念のみを直接伝達するのが最も効率が良いだろう。例えば妻が「喉が渇いている」と言うだけでは対応する具象行為に一意に紐づかない。そのとき妻が「水を飲んでくる」のか「カモミールティーを淹れてくる」のか「状態の表明だけで何もしない」のかは私には判断できないのである。これら具象行為の違いは、更に「離席するのでその間の子供の相手等を頼む」時間の違いに繋がる。

このように、コンテキストの事前共有のもとで具象概念について言及する事が、コミュニケーションの情報伝達効率の視点では最も望ましい。それ故、コミュニケーションにおいて実際に音声伝達される言葉は具象概念を表すものになりがちである。

コンテキストなき個別具象概念

この効率化コミュニケーションが成立する為には、あくまでもコンテキストの事前共有が必要である。一方で上記の抽象概念理解に関する話を聞いたとき、これが子供に対するコミュニケーションになると、そこには共有コンテキストがまだ形成されていないはず、という事に気付いた。

即ち、「お水飲む?」という我々の質問の背景には、長男の喉が渇いていないか知りたいという意図が当然あるが、この部分は長男には伝わっていない。そもそも、関わり合っている大人である所の我々が生活の中でその言葉を発しすらしない時点で、「喉が渇いた」という概念が長男に形成される筈も無い。自閉症児は他者の模倣で学ぶ事に難しさがあると言われるが、最近になって、長男には他者の真似をする事が増えてきたと感じる。しかしそもそも、真似るものがなければどうしようもない。そしてこれは、自閉傾向の長男だけの問題でなく、今のところ定型発達の次男にも当てはまりうる。もっとも、次男については保育園でも色々な言葉を吸収する機会があろうが。

長男は飲み物を水しか飲まない。そのため彼は、我々が喉が渇いたと言うところの不快感があった時には「水を飲む」と言えば良い。どうせ水以外飲まないので、「喉が渇いた」という概念理解を飛ばしていても、その不快感を起点にして得ようとする結果が一意に対応しているから、この点においてはコミュニケーション上の問題がないとも言える。一方で次男は水の他にも牛乳や豆乳、ジュース等、色々なものを飲む。そのような場合、「喉が渇いた」という表現ができなければ、個別に飲み物の名前を挙げて「〇〇飲む」と言うしかない。そう言われてしまうと、この〇〇を切らしている時には何もできない。「喉が渇いた」と言ってもらえれば、代替の何かはいくらでも提示できるのだが。無論、親であるところの我々は長男・次男の発言コンテキストを把握しているので、言葉が不十分でもそれなりに察することはできる。とはいえ、家庭外の環境3でそれは通用しない。

長男を療育で診てもらっている方に今回の発達検査の話をした時に、ああこれも同じ構造だな、と思ったものがもう一つある。長男は基本的にしょっぱい食べ物が好きである。言葉遊びのエントリで書いたスルメや味海苔、他にも鮭とばやサラミ、ベーコン、フライドポテト等。一方で長男はかなりの食わず嫌い4である。長男はあくまでもそれら個々の食べ物が好きなのであって、彼にとってはそれらが「しょっぱい」から好きなのではない=「しょっぱい」という概念が恐らく形成されていない。逆に、それらが「しょっぱい」ものであるという抽象概念が成立すれば、別の「しょっぱい」食べ物を、例えば我々が「これもしょっぱくて美味しい」などと言いながら導入する事が容易になる可能性はある。

見えないコンテキストに言葉を与える

このような目に見えない抽象概念、そしてそれが我々大人等の会話において言葉にされない暗黙のコンテキストになってしまっているもの、を理解してもらうには、やはりその時々においてその概念を指す言葉を我々から声かけしていく、という事になるのだろうと思う。我々にとっては、無意識的に依存している大人の会話のコンテキストを意図的に放棄する事になる。例えば長男にスルメを食べさせながら、単に「美味しいねー」と言うのではなく、「しょっぱくて美味しいねー」といったふうに声掛けをする等が考えられる。また、長男・次男も聞いていると思えば、大人同士の会話でもそうするべきだろう。例えば単に「水を飲んでくる」と言うのではなく、「喉が渇いたから水を飲んでくる」などとする。それを繰り返す。大人視点ではコンテキストを放棄してコミュニケーションの効率を下げる事になるが、ある種、長男・次男のコンテキストに合わせて会話をする、と言えるかもしれない。

ここで難しいのは、このような抽象概念・コンテキストの理解は恐らく線形分離できる課題ではないという事だ。今になって振り返ると、先日、ここまで考えていた訳ではないがそんな雑記を書いていた。 blog.kolmas.tech 以前に感想を書いた藤居氏の著書において、自閉症児の苦手とするものに非線形分離課題が挙げられている。この、抽象概念・コンテキストを伝える為に大人側がコンテキストを放棄するという話題、下手に進めると伝えようとする概念が長男にとって分離不可能、もしくは誤って分離されるようになってしまう可能性は感じられる。何でも一気に進めるのではなく、これから伝えようとする概念を何にするかを絞り込んで、それが他の概念と正しく分離できるように課題設計してやる必要がありそうである。例えば先程の「しょっぱい」の話題、下手な伝え方をすると、長男の中で「しょっぱい」の概念と「美味しい」の概念が等価になってしまう可能性などが考えられる。それは誤分類である。幸にして、長男の好物にはしょっぱくないものもあるので、それらも使って、こちらが関連概念をきれいに構造化した上で長男に伝える、という事をしなければならない。

ここまで書いてきて、この構造化するという話、機械学習における教師データを作る事との類似性を感じた。そう思うと、何だか普通のことだ。むしろ、そういった工夫もないのに抽象概念を理解できる人間の脳すごいな、と思えてくる。

余談 ー 平均は時に乱暴な指標

冒頭の発達検査の話題、実年齢五歳半近くに対して二歳七ヶ月相当、という結果だったのだが、その内訳は、一歳級の課題は全て出来る、二歳級・三歳級の課題は出来るものと出来ないもの有、四歳級の課題はほぼ出来ない、そしてそれを平均すると二歳七ヶ月相当、という事であった。ある意味、平均というのはとても乱暴なものである。上述した状況対処や抽象概念理解等の長男が苦手とする類の課題がある一方で、それよりもよく出来る類の課題もある訳だ。ただ平均すると、二歳七ヶ月相当という一つの値になってしまう。

平均する前の、分野ごとの得手不得手みたいな所もより詳細に結果を見せてくれれば良いのに、と思うところであるが、児童相談所の立場としてはそれは出来たとしてもしてはいけないのだろうな、という雰囲気はあった。


  1. 少なくとも今の段階で我々が観測する限りにおいては。
  2. 大学研究室時代、この牛乳愛を共有できる先輩が二人いて、私も含む三人の間で冗談で言い合っていたものである。読んで字の如く、水の如く牛乳を飲む教義。豆乳は邪教の飲み物。念の為、これは勿論冗談であるという事は重ねておく。
  3. 即ち、子供らのコンテキストが共有されていない環境。
  4. 長男の食嗜好傾向からして絶対に好きになるであろうものでも、初めてのものを食べさせるのはかなり苦労する。最初の一口を食べてくれれば後は食べるのだが、その「最初の一口」の打率は極めて低い。