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雑記と思索、偏った技術の覚え書き

交わる日常・非日常

成田空港に向かっている。明日から海外出張で、朝早くの便に乗るために空港近くに前泊するのである。直前のエントリの内容に対して実際はこれなので、大変罪深い。今日はまだ、件の姉が家に来ているのでマシではあるが。

私の普段の土曜日は、長男を車で療育施設に送り届け、その隣の喫茶店で昼飯を食べ、近場のヨーカドーで一週間の食料品等の買い出しをし、療育の終わった長男を迎え、家に帰るというものである。家に着いたらまずは子供らの晩飯騒ぎがあり、その後大人も晩飯にして、子供らを風呂に入れて、寝かし付けて、と続く。今日も、長男の療育から家に帰って来るまでは全く普段の日常通りである。その後、まさに今、成田空港に向かう電車の中にいるという非日常にある訳で、感覚のズレで脳がバグっている感がある。日常・非日常の切り替わりが急峻なのである。

明日深夜から朝にかけて雪らしく、電車遅延を警戒しての前泊である。後は、明日飛行機がちゃんと飛んでくれれば良いが。

次男が夜泣きする

ここ二ヶ月ほど次男三歳の夜泣きが酷く、ほとんど毎夜、概ね1〜3時頃に目覚めては泣く。一晩中寝るようになって久しいところに、急な変化である。

夜の子供らの添い寝は妻にしてもらっている1が、夜泣きする次男の泣き声は私の寝床まで届く程である。こうなるともう、一旦気分を変えてやらないと、何をやっても駄目である。具体的には、一度私の寝床に連れて来てもらって、そこで少し寝かせると落ち着く。私の方から迎えに行って連れて来る事もある。すると元の子供の寝床に戻りたがるので、全員で向かい、改めてそこで寝かし付ける。その後、私は私の寝床に戻る。

最も構ってやれていない

ここ最近、三兄弟の中で私や妻が最も構ってやれていないのは、恐らくこの次男である。時間的な意味でそうであるかは計測していないので分からないが、少なくとも優先度的な意味において、最も「割り込み」2を受けているのは次男である。

次男は、少なくとも今の所は定型発達の見立てである。一方、次男が物心付く頃には既に、これまでの幾つかのエントリでも触れている長男の自閉傾向が指摘されていた。その頃から既に、長男の相手にかけている時間は次男のものより長かったように思う。そもそも、次男は基本的に平日朝から晩まで保育園に通っているのに対して、長男は療育に通わせる都合で幼稚園は部分的に通っているのみであり、結果的に家にいる時間がより長い。そこに三男が生まれて、次男に構っていられる時間がより減じた節はある。

そう思うと、典型的な赤ちゃん返りのパターンであるとはいえる。下の兄弟姉妹が生まれて、その分構われる機会が減った上の子に出るというアレである。次男の場合、元々上述の長男の事もあったから、余計にすまないと思う。夜泣き以外にそれらしい所見が無いのはまだ幸いだったところ。

寝付きと卒乳

この次男、そもそも夜の寝付き自体あまり良い方ではない。私自身、夜型の傾向が強い3のでとやかく言えまいが、三歳にして普段寝る時刻が22時過ぎというのは如何なものかと思う。昼寝し損ねた時などは21時過ぎにパタリと寝落ちる事もあるが、むしろ、夕方に二時間くらい寝てしまった後に覚醒して夜の寝付きがさらに悪くなる、という場合の方が余程多い。そのような場合、酷い時は0時過ぎまで寝付かないことすらある。

ここ最近は、次男を寝付かせるのは決まって二世帯同居の私の父4の役割である。そうでないと泣く。ついこの前、私の両親が揃って一晩外泊する機会があったが、その日の夜は大変難儀した。他の家族が嫌いなわけでもあるまいに5、何故か寝るときには父の添い寝を要求する。添い寝してもすぐ寝るわけではなく、寝付くまではそこそこ時間がかかる。寝付かせたら父はその場を離れるのだが、このとき寝付いたと見えていたものが実はまだ起きていたりすると、大泣きして父を呼び戻す事になる。尚、冒頭の夜泣き対処の手順は、私が入っているところを私の父に置き換えても成り立つ。

次男の寝かし付けが父の添い寝になる前は、つい最近まで妻の授乳で寝かし付けていた。寝かし付け以外の授乳は大分前に無くなってはいたが、寝かし付け時の授乳が無くなった=次男が完全に卒乳した時期からはまだ一年も経っていない。一般的な卒乳のタイミングと比べたら相当に遅い部類である。三男の妊娠期間中もしばらく続いていたので、正直なところ内心かなりヒヤヒヤしていた節はある6。三男が生まれるまでに次男の卒乳は間に合ったのは幸いであった。ただ次男からしたら、ついこの間まで自分が受けていた授乳が受けられなくなり、それを三男が受けているという状況は、上述の赤ちゃん返り事象を強める原因かもしれない。

こちらの話は聞いている

ところで、上述の通り、次男の夜泣きは部屋を隔てても聞こえるほどに強烈なギャン泣きである。上記の手順で一旦落ち着かせないと、もうずっと泣き続けている。逆に、一度落ち着いた後の次男は、落ち着いた話も出来るし、じきに再び寝落ちる。この落ち着かせる手順について妻と、「理性が戻って来た」などと話したりする。

そんな言い方をしたりするものの、勿論実際のところ、別に次男は理性を無くしている訳ではない。むしろ、あれだけ大声で泣き続けながらに、こちらの話す事はちゃんと聞いている。「二階7行くか?」と聞くと、半泣き声ではあるものの泣き止んで「二階行く」と答える。そう答えた後は、もう大人しく二階まで連れて来られるし、その後の次男の「一階降りる」発言も普段通りのテンションでなされる。切り替えが早い。

あんなに大声でギャンギャンと泣いているのに、その泣いている事に呑まれている訳ではなく周りの話も聞けているというのは、それはそれで凄い事だよなと思う。何を言っても効き目無し、という風ではない。

外的要因と夜泣き率

時々、私の姉8が家に帰って来る。ちょうど今も帰って来ている。長男も次男も、この姉に良く懐いている。子供と遊ぶ時のテンションが、私や妻、私の両親と比べるとかなり異質で、とても子供ウケが良い。姉が来ている時は子供らの遊び相手をかなり任せられるので、有難いところである。そして妻の曰く、姉が来ている時は次男の夜泣きが少ないとの由。姉と長男と散々騒いで疲れて良く寝ているのか。もしくは大人との関わりが普段より多く、満たされているからなのか。尚、冒頭の夜泣き対処の手順は、上述の私の父の場合と同様に、私が入っているところをこの姉に置き換えても成り立つ。

先日、次男が風邪を引き、しばらく保育園に行けない時期があった。土日も連結して四日間程度保育園に行かないでいた9ら、その後数日夜泣きが無かったとの由。妻は、保育園に行かなかった分、妻や他の家族と触れ合う時間が長かったからではないかと推測している。ただ、再現は出来ていない10ので確証はない。また、そうだとしても、それこそ長男の療育や三男の世話も考えると、保育園を減らしたりするのは現実的ではない。そも、保育園には友達がいて楽しく過ごしているようでもある。

何が解決するのか

赤ちゃん返りに対しては、その子だけの時間を取ってやるのが良いという言説が多い。それはその通りだろうと納得できるし、これまでの数多の赤ちゃん返りした子に関する経験の蓄積だろうから信頼もできる。後は、現実的にどうやってその時間を捻り出すか、に尽きるのである。

ここに、普段は仕事ばかりで子供らを構う事があまり出来ていない私の罪がある訳で。。。せめて、夜泣きの時に起きて出てくる位はせねばなるまい。


  1. 私が仕事をしているので、そのような形にしてもらっている。申し訳ない事である。少なくとも妻が再び勤める時には再考要。その頃には子供らがもう少し落ち着いていると良いが。
  2. コンピュータにおける割り込み処理の話で喩えている。特定の場面において、そのとき実行中のプログラム・タスクを中断し、その場面に対応する別の処理を行う制御の事。
  3. 妻はどちらかと言えば夜が弱い朝型。一方長男は、最近は多少改善しつつあるものの夜型傾向で、次男や私に近い。要らん所ばかり私に似てからに、との思いは否めない。三男はまだまだ朝型も夜型もない時期だが、今後はどうなることやら。
  4. 子供らから見たら祖父。
  5. 父に良く懐いているのは事実ではあるが。
  6. 乳頭への刺激は子宮収縮に繋がる。本来は出産後の子宮復古を促す機構。
  7. 私の寝室は二階にあり、子供らは妻の添い寝で一階で寝ている。
  8. 子供らから見たら叔母。
  9. その四日間自体は夜泣きしていたし、体調が悪い分普段よりも酷かったように思う。
  10. 保育園に休まず通えているため。

干支ソング

テレビをほとんど見ない1が、例外的に、NHK教育=Eテレの番組「2355」は一昨年頃からよく見ている2。見ていてハッとする事もあるし、興味深い話題の紹介もある。独特な歌も好み。録画して子供に見せてみると、彼らのウケが良いものも結構ある。次男三歳は「米へんが通ります」が好きすぎて、登場する米へんの漢字3のほとんどを読めるようになってしまった。「ぬかにくぎソング」も長男・次男にウケて、意味は分かっていなさそうではあるが少し歌ったりする。

その中で、完全に時節を外した話題であるが、12月末に「干支ソング振り返りWeek」と称して、0655/2355毎年恒例の「干支ソング」を毎日少しずつ流していた。去年の干支ソングである巳年「DAPPI」及び「DASOKU」、一昨年の辰年「たつこたつ」及び「たつまなつ」、そのもう一つ前の卯年「勇者うさの大冒険」は元から知っていたが、他は聞いた事がなかったので一通り見て、それぞれ録画もしておいた。子供らにそれぞれ見せてみたら、これらもウケて、今でも時折見せろとせがんでくる。

何度か見せていて、家族それぞれ毎に好みが違っていて面白いと思った。長男は概ねどれも好きそうだが、特に巳年「DAPPI」「DASOKU」、卯年「勇者うさの大冒険」、寅年「トラ太郎とトラッタラッタオーケストラ」、子年「みんなあつまれ!2020ねずみ年新年会!」あたりの反応が良い。次男の場合は巳年「DAPPI」「DASOKU」、辰年「たつこたつ」、卯年「勇者うさの大冒険」、巳年(一週目)「きたー!チームにょろにょろの歌」あたりか。私もどれも好きだが、敢えて一つ選ぶなら戌年「ポチが通ります」が最も好み。私の父は亥年「オレ、いのししだし!」が気に入っていると言っていた。

今年の干支ソング「あけおめ!コンビニウーマート」については、初めて聞いた時の印象は「何か普通」だったのだが、何となく耳に残る感じはある。しかし、年末年始のコンビニでワンオペする彼よ。。。


  1. 私の意思からはあまり見ない、という話で、子供の要求に応じて「おかあさんといっしょ」とか「ピタゴラスイッチ」とか、もしくは鉄道の番組などを見るという事は、それとは別にある。
  2. 尚、兄弟番組「0655」は絶妙に生活の周期からずれているので見れていない。
  3. 糠・粥・粽・粘・糊・糯・粒・粉・糀・粍。

やまやのうまだしうどん

平仮名ばかりで読みづらい本エントリ題目、区切りは「やまや」「の」「うまだし」「うどん」である。

福岡に出張した時には、ほぼ毎回うどんを食べている。「牧のうどん」1が博多のバスターミナルに入っているので、いつもそこに立ち寄る。 www.makinoudon.jp 福岡の柔らかいうどん自体も好き2だが、それに加えて、優しい出汁味の汁もまた好みである。家でもそれらしいうどんの汁を簡単に作れるので、時々やっている。明太子のやまや3が出している商品「うまだし」を使う。

念の為、私はやまやの回し者ではない。4

やまやのうまだし

そもそも本記事主題の「やまやのうまだし」は何であるかという事に触れておく。これは所謂出汁パックである。Amazonでも買えるし、公式通販もある。

塩気も若干入っているので、単に煮出しただけの汁単体で美味しく飲める。出汁パックを破いて中身を料理に混ぜるのも良い。とはいえ、私はあまり使いこなせている訳ではない。私の使い方は、味噌汁のベースにするか、出汁茶漬けの汁にするか、湯豆腐にするか、うどんの汁にするか位である。妻はもうちょっと色々使っていて、それこそ破いて使っているのも妻である。

やまやのうまだしうどん

大分前の福岡出張の際に現地で買った時に、脇に置いてあったレシピ紹介リーフレット5を持って帰ってきた。私が準備するうどん汁のレシピはそこに書いてあったものを基にしている。以下の通り。

  1. 水300ml対うまだし一包の比率6で1〜2分間煮出す。実際に作る時はこの三倍量で作っている。

これだけ。元のレシピでは、ここからさらに醤油を加えて味を整えるとされているのだが、私や妻の感覚ではこの段階で十分に塩気があって美味しい。今は「うまだしつゆ」という醤油配合済みの商品もあるようだが、我々には醤油は不要である。この汁を作ったら、後は冷凍うどんを溶かして器に盛って、掛けるのみ。長男・次男も良く食べる。大人の分は、さらに有り合わせの具を盛ったりもする。ゆで卵やワカメなどで、これらも汁に良く合う。子供らも具を食べれば良いのにとは思うが、今の所は麺しか食べない。

冷凍うどんは、生活圏で手軽に手に入るものがコシ強い系のみであり、福岡の柔らかうどんの再現にはならない。しかし、コシの強い麺を入れても何の問題もなく美味しい。むしろコシが強い麺だからこそ、うまだしだけの味の汁が美味しいのかもしれない。冒頭で紹介した「牧のうどん」では、うどんに継ぎ足し用の汁が付いてくる。この継ぎ足し用の汁を、うどんを食べ終えて空になった器に少し出して啜ってみると、うどんが入っていた汁よりも塩気を強く感じる。あれは、あの柔らかうどんが汁と馴染む事も勘案した塩気であり、コシの強いうどんに対しては塩気が強いのではないかと思う。逆に、我が家のうまだしうどん汁も、柔らかうどんを入れるなら、少し醤油を足すのが良いのかもしれない。

結び

何はともあれ、やまやのうまだしうどん、手軽で美味しいのでお勧めである。やまやのうまだし自体は、うどん以外にも幅広に使えるので尚良し。


  1. その存在は以下の記事で知った。dailyportalz.jp
  2. これには賛否両論ありそうではある。私個人としては、あのふわふわなうどんも、コシの強いうどんも、どちらも好き。
  3. 株式会社やまやコミュニケーションズ。
  4. ちょっとした縁はある。
  5. やまやのウェブサイトにもレシピが掲載されている。
  6. この比率は、パッケージ記載の標準の煮出し方と比べるとかなり濃い。

何を強化しているのか・続 ー 刺激制御/好子の予告

攻めた副題を持つ以下の応用行動分析=ABAの本、我が家における通称「飼いネコ本」を読んで考えている事、の続き。

本書に関する前のエントリは以下。 blog.kolmas.tech

手を洗わせたい

最近の長男には、本来は自分で出来る事を自分からやらないという場面が目立つように思う。自分で出来る事が増えるのはまず第一に喜ばしい事であるが、そうしたら次には、その出来る事を、必要な場面で自分から出来るようにならなければならない。

例えば手洗いがそうである。単に出来るか出来ないかだけで言えば、手を洗ってタオルで拭くまで、ほとんど補助なしでも概ね出来る。完全に任せるとかなり雑なので、実際には脇にいて手伝っているが。ただ、手を洗うべき場面で自分から手を洗いに行く、という点についてはまだ不十分である。手を洗わねばならないという事を分かっていても、である。例えば外出から帰宅して靴を脱いだ後に「靴を脱いだら次は何する?」と問い掛ければ、回答を得るまで根気が必要な時もあるものの、ちゃんと「手を洗う」と答えられる。ただ、そう答えさせた上であったとしても、素直には手を洗いに行かない事が多々ある。「ママと手を洗う」と言って妻を探しに行き、その後実際に妻の手伝いで手を洗っていればまだ良い方である。妻を探しに行った過程で部屋の中のものに気を取られて遊び出したり、そもそも手を洗うという事に意識が全く向かずにその辺で遊び出したりする。最終的には私か妻かが、手を洗いに行くぞと言いながら洗面台に引き連れて行って、手を洗わせる。

しかもこれが、どこでもそんな様子なのかといえば、そうでもない。長男の療育においてはいくつかの療育施設に通っているが、そのうち一箇所、二週に一度の頻度で通っているところがある。家から電車+徒歩で片道二時間以上かかる場所にあり、三男が生まれたこともあって妻が同伴出来ないので、休暇を取って私と父1とで連れて行っている。到着したら当然ここでも靴を脱ぐわけだが、その後の「靴を脱いだら次は何する?」の問いにはすぐ「手を洗う」と答え、その後実際に洗面所に向かい、やはり手伝い付きではあるが素直に手を洗う。これは家での振る舞いと全く異なる。

そこの療育の先生にもこの話題は話していて、曰く、療育の場面では児の気を引くものを意図して少なくして気が散りにくいようにしていて、その影響もあるのではないかとの事だった。それは同意できる説明である。家には長男の気を引くものが多すぎる。かといって家は療育施設ではなく生活の場なので、それらを減らすことは易々とは出来ないが。

服を自分で脱がせたい

似たような話で、風呂に入れる時に服を脱がせる、という話題もある。長男において服の着脱それ自体は、少し手伝いが必要だがある程度は自力で出来る、程度の難しさである。自力で出来ないポイント、典型的には上着の袖から腕を抜く段階等においては「手伝って」と言わせる練習を妻がしている。

これまた、概ね出来るにも関わらず長男自身からはなかなかやらない行動の例である。風呂場の中には長男の気を引くものが様々にあり、服も脱がずに風呂場に入って行ったりする。脱衣所に連れ出して服を脱ぐように言うと、すぐに取り組み始める場合もあるが、全然取り組み始めないこともある。その場で寝転んだり、また風呂場の中に入って行ったりする。尚、一度取り組み始めれば、ズボンとパンツはすんなり脱ぐ。ただし上着は自分では脱ごうとしない。上着を脱ぐ事がまだ難しめの行動である、という事があるのだろう。こちらで片手の袖を掴んでおいてやれば後はすぐに脱げるのだが、上述の通り「手伝って」と言う事はまだ練習中でしっかり身に付いているとはいえないし、自分自身で袖を掴んでその袖から腕を抜く事も練習中2である。だから、上着を脱ぐ段階で止まってしまうのはまだ分かる。とはいえ、ズボンとパンツは簡単に脱げるようになっているのだから、それは自分から脱いでくれ、という気持ちにはなる。

これもまた、服を脱ぐべき全てのシチュエーションで同様という訳ではない。典型的にはトイレである。長男のトイレトレーニング自体は最近になって急激に進展し、昼間はオムツなし・布パンツで過ごせている。楽しい事があるとトイレに行きたそうにしていながら我慢し続けている節があり、こちらからトイレを提案してやらないとならないが、自分からトイレに行く事を主張する場面も出てきた。いずれにせよ親を引き連れて、もしくは親に引き連れられてトイレに行く訳だが、そうすると、何を言わなくても自らズボンとパンツを脱ぎ3、便座に座るのである。自律的に脱げてるじゃないの、と思う。

刺激制御・弁別刺激

長男は「手を洗う」という行動自体は習得している。「服を脱ぐ」事も、一部手助けは要るが、概ね出来る。それらの行動をすべきタイミングであったり、するように言われたときに、しない、という事が問題である。これらの課題は、件の本で説明されている内容を鑑みると、刺激制御が上手く成立していないと説明できるだろうか。

件の本によれば、何らかの行動のきっかけになる刺激を「弁別刺激」と呼び、その上で以下のような状態にある事をその行動が「刺激制御」されていると呼ぶとのことである。

  • 弁別刺激が与えられたときに、対応する行動が起こる。
  • その弁別刺激が与えられたときに、それとは別の行動が起こらない。
  • その弁別刺激が与えられていないときに、その行動が起こらない。
  • その弁別刺激以外の刺激が与えられたときに、その行動が起こらない。

帰宅時の手洗いの場面で言えば、「手を洗う」という行動を引き起こす弁別刺激が成立していない、という事になるか。「靴を脱いだ」という事が、「手を洗う」行動の弁別刺激になっているのが望ましいのだろうか。少なくとも「手を洗いな、と言われた」刺激には反応してほしくはある。一方で、そうする必要もないのにやたらと手を洗うのも問題4である。風呂前に服を脱ぐことについては、そのための弁別刺激は何であるのが良いか。「脱衣所に来た」?「風呂入るよ、と言われた」?トイレの場面に関しては、「トイレに来た」という刺激が「ズボンとパンツを脱ぐ」行動の弁別刺激として成立しているということだろうか。もちろん、必要のない場面で服を脱ぎ出すようでは困る5のは当たり前である。

新たな弁別刺激を成立させることも含め、対象がこれまでする事が無かった行動を新たに身につけさせる方法論として、件の本では「シェイピング」という手法を説明している。これについてはまた別途書きたい。

好子の予告

ここにきて気になるのは、何かを子供にさせる時に「〜〜したら〇〇」といった形で好子を予告する事である。〇〇の部分には、例えば長男の場合には電車動画が入ったりする。

これを刺激制御の観点のみから見ると、行動を発生させるための刺激に余計なものが混ざってしまっているようにも思える。「靴を脱いだ」もしくは「手を洗いな、と言われた」ら「手を洗う」ようにしていきたいのであって、「手を洗ったら動画だよ、と言われた」事を弁別刺激としたい訳ではない。弁別刺激だけであれば、件の本でも説明されているように段々と小さくしていけば=フェイディングしていけば良いとも思うが、最近、「手を洗いな、と言われた」ら「動画を見る事をゴネる」ようになってきた。こうなると最早別の何かを強化してしまっている。つまり、ゴネれば動画が見れる→ゴネる事の強化である。

ゴネる事を強化させないためには、それに対して好子を与える事=ここでは動画を見せる事、を避ければ良い。ただし、これは徹底しないと逆効果である。ゴネた時に最終的に好子が与えられるたり与えられなかったりすると、それはゴネる事に対する変動強化であり、それをより強く強化する事になる。とはいえ生活の中で、ゴネてどうにもならない長男の行動を進ませるために動画を見せたくなってしまうのはある程度避けられない所もある。となれば、ゴネるという行動がそもそも出にくくなるように場面を設計していくしかない。

その点において、好子の予告は扱いが難しいように思う。好子を予告すると、確かにその次の行動に移らせやすいが、その状態から抜け出しにくいように感じる。実際、上述のように長男がゴネる。その上で、予告してしまっている以上は行動後に好子を与えないのは裏切りであるから、行動に対して毎回好子が与えられる連続強化になる。そこから部分強化に移行していく事が難しい6。そのために、本来強化したい筈の、必要な場面で必要な行動を起こす事に対する強化が進みづらくなるように思う。

ただ、起きた行動を強化するABA的手法においては、まずは対象の行動を起こさせなければしょうがない。その、まず行動を起こさせる、という事について好子の予告が効果的なのも事実である。もうこうなると、匙加減の問題という、まさに最も扱いが難しい領域に至る。

段取り理解と刺激制御

ところで、ここで刺激制御の話題に戻ると、そもそも刺激制御でこのような場面を全て説明できるのかについて、ここまで書いてきて疑問に思う節もある。

我々は外から帰ってきたら手を洗うし、風呂の前には服を脱ぐ。そうしなければならないと分かっているからである。ただ、帰ってきて靴を脱いだらすぐに手を洗うか、というと、そうである時もあるし、そうでない時もある。例えば車に買い出しの荷物を積んでいる時には、まず先に冷蔵庫前と車を何往復かして荷物を全部家に取り込んでしまう。この一定程度可変な振る舞いは、刺激制御で説明出来ないように思える。

長男を通わせている療育施設の一つ7での取り組みの中に、段取りを付けて活動する、というものがある。具体的には、五種類程度の取り組みを順に行うというもので、それぞれの取り組みに必要なものが①〜⑤の表示のあるカゴに入っていて、順に取っていくのである。最後に取り組む⑤の箱には、長男の好きな玩具が入っていて、一連の取り組みのご褒美的な扱いになっている。これも、刺激制御という感じはしない形式である。箱の中身と順序は毎回違っていて、固定的な刺激により行動を誘発するという考え方は当てはまらない。この取り組みが目指すのは、与えられた段取りを見通し付けて遂行できるようになる事であって、固定的な玩具を固定的な順序で取って遊ぶ事を強化しても仕方がない。

刺激制御と、この段取り理解の話題を比べると、弁別刺激による行動の誘発は多分に機械的で、その一方で段取りには行動に対する本質的な理解が必要であるように感じられる。我々は、家に帰ってきたら手を洗わなければならないという段取りの必要性を理解している。それ故、時にはその必要性を満たす範囲で行動の順序を入れ替えたりも出来る。これに対して、弁別刺激と対応する行動の意味的繋がりを理解させなくても、刺激制御自体は成立させられる。これは簡単である一方で、固定的で応用は効かないものだろう。

療育の先生に、手を洗う等の生活上必要な動作は、固定的なルーティンにしてしまうのも良いというアドバイスを頂いた。上述の考え方に当てはめれば、これは段取り理解が必要な課題を、刺激制御でなんとかなる領域に近づけて簡易化するもの、と言えるかもしれない。

段取り理解と好子の予告

この段取り理解の話題は、好子の予告の件とも絡めて考えられる。即ち、上述の⑤の箱に入っている長男の好きな玩具は、長男にとって好子であり、その存在は段取りの最後にあるものとして予告されている。

この⑤の箱の玩具が何を強化する事を狙っているのかといえば、勿論、段取りに従ってそれまでの取り組みを遂行する事、ではある。加えて、長時間の取り組みに集中している事が難しい長男のモチベーションを続かせる効果もあると思う。とはいえ、やはり長男は取り組みの途中で集中が切れ、その⑤の玩具に手を出そうとする。その時先生は、「これは⑤番である」事と「今は〜番である」という事を長男に伝え、⑤の玩具には手を出させない。ゴネてもどうにもならない、という事が徹底されている。

この様子も見て思うに、好子の予告がゴネを誘発するのはどうしようもないらしい。となれば、療育施設ほど徹底した環境調整が出来ない家庭環境においては、好子の予告を使うのは、余程難しい事に取り組ませる場面に限定した方が良さそうに思える。そもそも行動を強化する力は、予期せず与えられる好子の方が強いのだし。その事も踏まえて、必ずやらせなければならない日常動作的なものは、まずは固定的ルーティンに落とす=刺激制御でなんとかなる領域に近づける事で、簡単な課題にしてしまった方が良いのだろう。

何を強化して(しまって)いるのか

諸々考えて結局は、何を強化しているのか、あるいは何を強化してしまっているのかを意識し続ける必要性、という以前のエントリと同じ結びに至る。我々が強化したいのはゴネる事ではなく、必要な時に適切な行動を起こせる事である。それを狙って強化する枠組みが必要で、その枠組みを設計する妙技を身につけねばならぬ。無論、設計したら実践しなければならない事は言うまでもない。

実践の過半が妻任せになってしまっている事が、私の罪であり、妻に申し訳ない所であるよなと、改めて思う。側で小言を言っているだけ、の構図でしかない。。。

余談 ー 弁別刺激とプロンプト

件の本の刺激制御周りの記述は、別に読んでいて分かりにくいというわけではない8のだが、少し解釈に自信が無い感もある。最も大きなモヤモヤ感は、弁別刺激とプロンプトに類似性が感じられる事である。フェイディングという言葉・概念を適用する事も同じだし。これらは同じ概念なのか、違う概念なのか?


  1. 長男からしたら祖父。子供がいる生活全般に関して、持つべきものは退職した両親、とは常に思う。そうでなければ私は今のような働き方はとても出来ない。
  2. 練習させているが、まだ難しそうではある。袖を掴んだ手が、腕を抜こうとするときにすぐ離れてしまうのが難点。指先の力が足りないのか、力を入れにくい姿勢なのか、はたまた集中力の持続の問題なのか。
  3. よくよく考えてみれば、下半身の服を脱ぐ機会は上半身の服を脱ぐ機会よりも余程多い、つまり練習の機会が多い、ということもある。
  4. この季節にそんな事をしていたら手が荒れる。
  5. 幸いにして長男にその様子はない。
  6. そも、ランダムであるという事の本質は予測できないという事である以上、予告された好子は部分強化に繋がりえないのでは、とも思う。
  7. 上述の、二週間に一度の頻度で行っている所。
  8. むしろ、読み物としてかなり読みやすい部類の本だとすら思う。