kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

庭仕事的な何か

先日の以下エントリの続き、のようなもの。 blog.kolmas.tech

このエントリで触れた、洗濯物の始末に関するある意味病的なこだわりについて、行動規範化されているというのは勿論そうなのだが、それだけではないようにも感じられる。

「庭」の美観

洗濯物を取り込んで、仕分けて畳んで整えておく作業を相変わらずしている。それら洗濯物はどうせすぐに再び利用するので、仕分けておくまではともかく美しく整理する事には実質的な意味があまり無い、ということは自分でも分かっているのだが、やめられない。

上掲のエントリで述べた通り、そうすることが私の行動規範になっていて、それに従う事が目的化している節はある。ただ、それに加えて、自分が手を出すからには自分の完璧に仕上げておきたいという、これまた以前のエントリで触れた内容にも通ずる感覚をも覚える。手を出すからには、中途半端にしておきたくない。美しく仕上げておきたい。逆に言えば、これは上掲エントリでも触れた事だが、全てにおいてその姿勢でいるのは不可能なので、あえて手を出さないでいる事も多々ある。

思うにこれは、私にとって「庭」であるらしい。もちろんこれは物理的な意味における庭の事ではない1が、自分の管理している領域を秩序をもって美しく整えるという作業が、庭仕事に近しいように感じられる。

「庭」の耐実用性

庭に関わる人間は、その庭を手入れしている庭師だけではない。その庭を訪れ、鑑賞し、あるいは活用する人間という存在が、庭師とは別に存在する。そういった意味での実用性が庭には求められる。実用上の要件を満たし、さらにその上で庭師が思うこだわりを発現したものが、良い庭というものであろう。例えば盆栽等は、土いじり・植物いじりという点、また作り手のこだわりが発現するという点で庭との共通点を持ちえども、実用上の要件を持たないという点が庭とは異なる。

その点で、先程来述べている私の洗濯物始末は「盆栽」ではなく「庭」である2。整理した洗濯物のうち、明確に私のものを除いた残り、即ち妻の服と子供服及び汎用的なタオル類、について日々実際に手に取る事が多いのは妻である。そこで、妻の行動パターンを想定したり、もしくは本人に聞くなどして、妻が使いやすいように区分けして整理したり、もしくは実際に服が必要となる場所3に予め配したりしておく。その上で、ここからは私の勝手なエゴ、即ち実用上の要件にはあまり当てはまらない領域として、個々の洗濯物はきれいに畳むようにしている。ここまでくると、気になり始めたら徹底しないと気が済まないという冒頭掲載エントリの話で、その点の病識はある。

そうして組み上げられた私の「庭」であるところの整理された洗濯物が、その想定通りに妻に使われているのを見るのは、シンプルに快感である。自分のデザインした系=システムが上手く回っている事に対する快感であるという点で、一応は私の専門である情報システム関連も含む、全てのエンジニアリングに通ずる感覚なのかもしれない。実際の庭仕事に関しては想像しか出来ないものの、自分が手入れしている庭を他の人がその想定通りに鑑賞したり活用したりしている様を見るのは、庭師の喜びなのではないかと思う。庭師はエンジニア職だったのだ。

「庭」の最適化

逆に、「庭」が想定通りに使われていないというのは問題である。これを一概に「庭」を使う側の責とするのはエンジニア的な傲慢である。そのような場面では、「庭」の設計自体に問題があることも多々ある。私も、「庭」を「庭」として維持する事については固執しているが、一度設計した「庭」の設計に固執しているつもりはない。

かの洗濯物整理に関しても、取り組み始めた当初からすると、その整理の考え方はかなり変化している。洗濯物が使われている様子をその結果から観測して、上手く使われていないところを特定し、そこがより上手く回るように整理の考え方を変更して試してみる。例えば上述の「実際に服が必要となる場所に予め配しておく」設計を導入したのは割と最近の事である。そうしておかないと、未整理の洗濯物の中から必要な服を妻に探させてしまう事象が発生する事に気付いたのだ。それは、妻の手間が増えてしまっているという点で気になるのは勿論であるが、それに加えて、洗濯物の整理という私の「庭」の機能不全であるという点でも看過出来ないものであった。ならどうすれば上手く回るのか、を考えた結果が「実際に服が必要となる場所に予め配しておく」である。「庭仕事」の手間は増えるが、それで「庭」の機能不全が解消されるのは快感である。

その点、「庭」に関して意見を言われる事についても、必ずしも嫌であるわけではない。現状の「庭」が使いづらいという意見が、論理的に筋が通ったものとしてあれば、それを受け入れて「庭」を改修するのは全くやぶさかではない。その意見に適合するように秩序を改めた「庭」を作れば良いのである。秩序あるシステムとして「庭」が機能していれば満足なのであって、そのためなら、自分の発案でなかったとしても秩序の更新は惜しまない。

「庭」荒らしの排除

それとは逆に「庭師」として受け入れ難いのが、秩序やポリシー等を伴わず「庭」に手出しされる事である。実用に即する秩序ある美観を整えてある私の「庭」が、無秩序に荒らされることは認め難い。勿論、現状の「庭」にシステムとしての使いにくさがあって、そのせいで本来想定された使い方をされていないのなら、それは「庭」の設計を改めるべき問題であって、上述の通りそうする事に何の躊躇いも無い。しかし、特にそういった理由もなく「庭」の構成を改められたり、もしくは散らかされたりする事が、感情的にどうしても受け入れられない。

具体的には、例えば先程来取り上げている洗濯物始末の話題、「庭仕事」としての洗濯物始末のプロセスに割り込まれないように、全て先回りして作業しておくことを意識している。例えば風呂場の脱衣所に設置してある洗濯機、これに洗濯・乾燥済の洗濯物4が残っている状態で、妻が子供らの風呂入れのために風呂場に来たとする。すると子供らは勝手に洗濯機のドアを開けて、中身を脱衣所に散らかしたりする。これが私の感情的に駄目なのである。子供らが、こういったものを散らかしたがるというのは仕方ないものと、理解してはいる。しかし、そうされることを私が認められないのは感情的・情動的な反応であり、それを前に「理解」など無意味である。理解で感情を抑えられないという事に対しては、アンガーマネジメントをもっと訓練しろよ、と言われるだろうが。どうあれそんな事が起こるので、こうなったら子供らが風呂にやってくる前に、先回りして洗濯物を取り込んで手出しされないようにしておく、というのが今の所の解決策である。

「庭」を荒らされる余地を残さない、という「庭」の設計をするのである。システムとして対処・解決するという事。そこまで含めて設計した「庭」の機能美を愛でるのだ。

「庭」の遺棄

とはいえ、そういった意味での「庭」のシステム化を突き詰められない領域は、特に子供らが関わる場面では多々ある。というより、未就学児である子供らを秩序だったシステムに組み入れるという事は不可能だろう。それも理解してはいる。

上述の洗濯物始末に関しては、その「庭」に子供らが割り込んでくる余地を排する事によって「庭」たらしめている。ただ生活の場でそのように出来る場面はむしろ希少である。例えばリビングには絵本をしまっている本棚がある。しばらく前までは、散らかった本を片付ける際、何となく絵本の内容やシリーズによって分類していた。しかし子供らは常に散らかすし、それを毎回私が片付けられる訳でもない。今の段階での「庭」としてのシステム維持は不可能であると悟り、分類整理は止めた。

ここでまた、冒頭掲載エントリの話が効いてくる。即ち、やるからには徹底したくなってしまい、逆に徹底出来ないものには手を付けない、という点である。絵本を美しく片付けるという「庭仕事」は不可能だと悟った瞬間、絵本の片付け自体をしなくなってしまった。絵本が散らかっている空間を別用途に使うために5、それらをまとめて無作為に本棚に放り込むくらいの事はするが、それは「絵本を本棚に片付けた」とは言わない。

そのようにして管理を断念した「遺棄された庭」は結構ある。勿論、出来るならそれら全てに再び「庭」の美しさを取り戻したいと思うが、その実現は現実的には無理である。気にして取り組み始めてしまうと徹底しないと気が済まないので、努めて気にしないようにして精神の安寧を守っている。守り切れずに小言が出てしまう事は多々あって、妻には大変申し訳ない所なのであるが。。。

視野狭窄の感はある

私のこのような振る舞いが、全体最適の視点を著しく欠いている事は自分でも良く分かっている。

洗濯物始末の「庭」にやたらとこだわって睡眠時間を削るより、睡眠時間を伸ばすなりその他の事に手を付けたりする方が良いに決まっている。徹底出来ないから手を付けないのではなく、それぞれを「てきとう」に済ませながら色々な事をした方が、系全体にとっては有益だろう。それは分かっているのだが、尚も細かい所に囚われて、その範囲での局所最適を目指してしまう事を止められない。視野狭窄である。先にエンジニアという言葉を出したが、真にエンジニアリングを突き詰めるなら系全体の最適を指向すべきであって、局所最適の追求に囚われてはいけない。生活の全てが、それ全体で一つの「庭」であるべきなのだ。

分かっているが、しかし止められない。やはり病的。


  1. むしろ、物理的な意味における庭の手入れなどほとんどした事がない。
  2. 少なくとも、自分としてはそうであるつもりである。
  3. 具体的には風呂場の脱衣所。子供らを引き連れて風呂場に来る妻に、その時必要な着替えを別の場所から持ってくる余裕は無い。
  4. 先日のエントリで述べた洗濯物始末の手順でいうところの、前日深夜に仕掛けた二回目の洗濯の結果。
  5. 典型的には、子供らの寝床にするために。

回転機械の原体験は(多分)ラピュタ

子供らが家の中から竹とんぼを掘り出してきた。私が子供の頃から家にあったものである。子供の頃は、手の中で横にしてくるくると回して、「天空の城ラピュタ」のタイガーモス号1のプロペラに見立てて遊んでいた。不器用だったし、家の中で飛ばすのはそもそも危なかったので、竹とんぼ本来の遊び方はしていなかったが、なんとなく当時を思い出せる玩具である。

そんなことを考えているうちに、ラピュタには印象的な回転機械が多いな、とふと思った。例えば以下。

  • オープニング映像に登場する様々な機械
  • 劇中冒頭でパズーが操作しているエレベータの機関部
  • タイガーモス号の機関室

今でも、回転機構を持つ機械をずっと眺めていられるのだが、これらはその原体験であるかもしれない。フラップターなど、同作には他にも印象的な機械が沢山あるが、重厚・無骨な回転機械の描写が心に残る。


  1. 海賊ドーラ一家の飛行船。

行動規範の奴隷

ここ最近の体重増加傾向を見るに、そろそろ再び減量に舵を切らねばならないと思っている。私の身長は170cm強で、そこから導かれる適性体重1は60〜65kgだが、今の体重は75kg程で尚増加傾向にある。また数値的に見るまでもなく、明らかに腹が出てきていて、適正体重の頃に作ったスーツ2がキツくなっている。そのスーツを作ったのは一年半ほど前の事であり、その短期間で15kg程重くなっている訳で、かなりまずい。

間食完全断ちダイエット

実は、以前は体重が85kg近くにまでなっていた時期がある。その頃の検診で肝機能にD判定を貰い3、いよいよ危機感を覚えて減量に着手し、その成果として体重を60kgまで落とせていたのが、上述のスーツを作った時期である。

運動して代謝を上げる事によって痩せるのが最も良いのだろうが、生活の中に新たに運動習慣を取り入れる余裕など無い。必然、摂取カロリーを減らす方向で考える事になり、実際に取り組んだのが、間食を完全に断つ事である。職場には無料で制限なく飲めるカップ自販機と、こちらは有料だが菓子・軽食を置くオフィスコンビニがある。とても良いものであるが、減量の観点からは悪い文化である。これらの利用を完全にやめ、職場で昼食以外に口にするものは冷水機の水だけにした。それ以外にも、ほぼ全ての間食とデザートを止めた。甘党の私には苦行である。当時、自分に許していた甘味は、0kcalのゼリーかICEBOX4くらいのものであった。

その効果は凄まじく、月間2〜3kgのペースで痩せ続け、1年弱で20kg強の減量を成した。肝機能はB判定になり、その翌年にはA判定にまで戻った。出ていた腹も引っ込み、メタボリックシンドローム判定にも引っ掛からなくなった。それまでどれだけの間食を摂っていたのかという話であり、ある時計算してみたら、間食だけで1000kcalを超えていたのではないかと判明してゾッとした。普段から朝食を食べない一日二食生活をしている5が、それにしても摂りすぎであろう。私の体からしたら、ある日突然この1000kcal超のエネルギー供給が失せた形だが、それならそれで備蓄の栄養を使って回していた訳で、人体の適応力には感心する。

とはいえ、これは本質的に不健康な痩せ方ではある。単にエネルギー供給を減らすだけの減量は、ただでさえ低い代謝をさらに下げ、リバウンドしやすくなるという。その結果が冒頭にて述べた現在である。体重が60kgに至ったあたりで、そろそろ間食を多少は入れても良いだろうと考えて「完全断ち」を止めたが、その後は着々と間食量が増えてゆき6、15kgのリバウンドに至っている訳だ。これはこのまま放置したら、恐らくまだまだ増えると思われ、そろそろまた「完全断ち」を再開しなければならなそうである。

徹底する or 何もしない

この減量の話にしても、他の何かにしても、自分の行動について「てきとう」な匙加減で取り組むという事がどうにも苦手である。ここで言う「てきとう」とは、雑であるとかあまり考えずに決めているといった片仮名の「テキトー」と、妥当とか適切・適量といったニュアンスでの「適当」の、両方の意味を含む。

上述の「間食完全断ち」は、それまでの私の生活状態との比較、即ち1000kcal超のエネルギー供給の急峻なカットかつ好物である甘味のほぼ全ての制限、という視点で見ると、かなり苛烈な行動規範であったと思う。ただ、ひとたび自らに行動規範を規定したらば、それを徹頭徹尾、例外なく徹底しないと気が済まなくなる。最早盲目的に行動規範に従っているとすら言えるかもしれない。一度でも行動規範に例外を作ってしまうと、その後早々にその行動規範が瓦解してしまうという精神的な未熟さを自覚していて、それ故、例外を作ることに恐怖している節もある。どうあれ、「てきとう」に出来ない。

そのように行動規範を継続させるという点では、私にとっては、むしろその行動規範が苛烈であればあるほど効果が高いのかもしれない。自分で規定したものとはいえ、苛烈な行動規範に従えている、という事それ自体が一種の快感をもたらしているきらいはある。手段が目的化しているといえよう。若しくは、奴隷の鎖自慢か。その鎖には自分で自分を繋いでいるのであって、そう考えるとマッチポンプ的ではある。

とはいえ、ありとあらゆる物事に対してこの考え方でいると疲弊してしまう。そのため、普段の私は様々なことを気にしないで過ごしているようである。ひとたび何かが気に掛かってしまい、それに対応していると、そのうちにそれが行動規範化していき、それに従う事が目的化する。こうなるともう「てきとう」に出来ない。そうならないように無意識下で、周囲の環境や状況に無頓着でいるようにしているのだと思う。これが周囲7には、特定の物事に関しては「てきとう」にせず病的に徹底する癖に、その他のことに関しては「テキトー」が過ぎる、という風に映るらしい。まぁ、その印象自体には反論の余地は全くない。

その点では、この行動規範化の事例の一つであるところの「間食完全断ち」は、取りやめた後に「てきとう」に過ごす事が出来なかった結果、結局はリバウンドして今に至っている。再度の規範化が必要である訳だが、そうする踏ん切りがまだ付いていない。苛烈な行動規範は、運用し始めれば上述のようにそれ自体が目的化するが、運用し始める事の精神的ハードルは高い。この初動の遅さも問題点ではある。

事例②:洗濯物始末

三男が生まれて以来、家族の洗濯物の始末は主に私がしている。先日もあったような外泊付きの出張等で長期間不在にする際はどうしようもないが、そうでなければ概ね私が洗濯機を回し、また取り込んだ洗濯物の始末をしている。これも私の中では、上述の表現で言うところの行動規範化されている行動である。

我が家で洗濯機を回すタイミングは、基本的には深夜である。深夜電力の活用。ドラム式の乾燥機付き洗濯機であるが、洗濯物の量が一回の洗濯→乾燥で干し切れる範囲を超えているので、一回乾燥なしで洗濯だけを回し、その結果を浴室に干して浴室乾燥機をかけ、次いで残りの洗濯物を洗濯機に放り込んでこちらは乾燥付きのコースで洗濯機を回す。一回目の洗濯の前には、昨夜の洗濯物が洗濯機に入りっぱなしになっているので先にそれを取り込む。また、浴室乾燥機で干した昨夜の洗濯物は、風呂に入る前のタイミングで取り込む所まではしてある。どうせ二回目の洗濯のために一回目の洗濯が終わるまでは待っていないといけないので、その間にこれら昨夜の洗濯物を仕分けて畳む。もっとも、仕分け・畳み作業が終わるより先に一回目洗濯の方が終わるのだが、手を付けたからには最後まで仕分けて畳む。

この工程が、「昨夜の洗濯物」の分量次第ではあるが、概ね一時間半から二時間程度かかる。夜型な子供ら8の寝かしつけ事情や私の仕事都合などがあって、着手するのは概ね23時〜0時頃、従って完了は1時〜2時頃となる。完了後すぐに寝付ける訳でもないので、翌朝が出勤であったりすると、睡眠時間を強く圧迫する。

それでも止めていない。仕分けて畳むのを止めるとか、二回の洗濯の片方を昼間に回すとかすれば、夜の時間の圧迫を減らせる事は分かっている。しかし、翌日に向けて洗い上がった洗濯物を美しく9仕分けて整えておく事が、最早、必ず達されねばならない何かになっていて、止められない。仕分け作業は後である程度役に立つが、美しくしておく事には実質的な意味があまり無いという事も分かっている。それでも、着手するからには徹底的にやらねば気が済まない。また、その作業をしているのなら、その裏で初回・二回目の洗濯を回せば良いという気持ちになり、そちらも合わせて止められない。

病識はあるけれど

間食完全断ちをしていた頃は病的だから止めろと言われていたし、今の睡眠を削った洗濯物始末も病的だから止めろと言われる。私自身も、これらの行動規範が病的であろう事は否定しない=病識は持っているつもりである。何と診断されるものかなどという事は、分からないが。

しかし病識があったところで、止められるかは別の問題である。そもそも、理性で行動を止められる位だったら、その行動について病的であるとは最早言うまい。如何ともし難い所である。

続きのようなものを書いた。 blog.kolmas.tech


  1. カシオの高精度計算サイト、で計算。高精度が必要な計算ではないが、このサイトは色々な計算機能が元からあって便利。いつの間にか運営がカシオでなくなっていた。keisan.site
  2. 宮崎に出張した時、アパレル業界出身の同僚の案内で「宮崎ファクトリー」を訪ねて作ったもの。体系計測してフィットするスーツを作ってくれる。生地も膨大な選択肢の中から選べて楽しい。miyazaki-factory.jp
  3. 酒など全く飲まないくせに。脂肪肝であったのだろう。
  4. 一つ食べても15kcalしかない。素晴らしい。
  5. 朝食を摂るくらいだったら、30分余計に寝ることを選ぶ。
  6. それでもまだ、最盛期の頃ほどには食べていないと思うが。
  7. 両親によく言われる。
  8. 要らん所ばかり私に似よってからに、と思う。
  9. 美しく、とは言ったものの、私は不器用なのでもっと美しく整える人はいるだろう。むしろ、丁寧にやらねば最低限の美しさも保てなかろうという意識。

新型コロナ席巻す

2月後半、どうやら次男が保育園で新型コロナを貰ってきたらしかった。深夜、家族の中で最初に39度程の熱を出して、ぐったりしていた。保育園に新型コロナの感染者も出ていたらしい。とはいえ翌朝には多少は元気になっていて、その翌日くらいには熱も下がった。ただ、その後もしばらく食欲が普段より下がっていた。

その次男の横で、私の母が熱を出した。一晩経っても熱が引かず、こちらも39度台まで乗ってきたので、病院に行ってみたら、検査結果は新型コロナであったとのこと。これで、次男が新型コロナを貰ってきたのだろうという推測が立った。更に妻にも風邪症状が出て、38度台の発熱があった。家族の中で最も体力があるのは妻であるが、その妻もバテた。これはもう家族全員に一巡するだろうと思われた。

そして私の父にも風邪症状が出始めた頃、深夜に四ヶ月の三男が38度台の熱を出した。一巡するだろうとは思っていたが、三男に来るとは思っていなかった。低月齢の発熱は怖い1ので#7119に電話し、アドバイスに従って深夜診療の輪番担当の病院まで車を走らせ、診てもらった。採血と導尿して2検査した結果、検査結果に二日程かかるものも含めて引っかかるものはなく、新型コロナでしょうという事になった。

私以外の家族の症状が和らいできた頃、最後に私が熱を出した。熱の他には鼻・喉・消化系に症状あり。家族の症状ピークのタイミングとズレていただけ、まだ良かったとはいえる。

ワクチンを受けられる家族は全員受けていた事もあり、全員、新型コロナの考え方でいう所の軽症であったと思う。中等症ですらない。それでも十分しんどかった訳で、これは確かに人を殺すだろう。


  1. 胎児期の胎盤経由の免疫や母乳からも免疫を得ているために珍しく、警戒すべきもの。
  2. ギャンギャン泣いた。

先走る講演ハイ

先日の出張で、数年ぶりに英語講演をした。内容は伝わっていたようなので良しとするとして、一方でもう少しどうにかならなかったものかと感じるところでもある。

講演ハイ

研究者くずれをしていた頃は勿論、今の仕事においても、多くの聴衆を対象とした講演をする機会はそこそこある。ある程度は慣れているとは思うものの、正直に言って、講演する事が大好きという訳ではない。むしろ、講演を始める直前というのはとても嫌な時間である。酷く緊張し、しかしそれから逃れようもないというあの時間は、たまらなく嫌いである。舞台袖が無いような場面では、何をする訳でも無いのに演台に立って待っているという居た堪れなさもこれに加わる。

一方で、講演を始めると段々とテンションが上がってくる。私はこれを「講演ハイ」とか「プレゼンハイ」などと呼んでいる。講演はプレゼンに含まれるだろうが、プレゼンの方が幅広な概念であろう。あらゆるプレゼンでハイになる訳では無いので、「講演ハイ」の方が正確な表現1だろうか。講演を始めてさほど時間も経たないうちに、この講演ハイのモードに入る。

講演ハイになると、話したい事・話すべき事が矢継ぎ早に頭の中に浮かんできて、それをそのままに話すだけの状態となる。そこに最早緊張は存在せず、欲求の赴くままに話したい事をただ話している。講演資料2を作る際に、それぞれのページで何を話さなければならないかは考えながら作っているし、資料自体にもそれを想起できる内容を散りばめているので、「話したい事」が尽きる事もない。その点、他人が作った講演資料で話す場合には、事前に資料を流し見ておかないと講演ハイが途中で途切れたりする。

そうして講演ハイの状態でひたすら話し続け、一通り話し終えてしばらく後に講演ハイが抜けると、講演中には一切感じていなかった疲労感がまとめてやって来る。休憩を挟みながらではあるが一日中講演をするような機会も時々あって、それを終えた後などはもう何もする気がなくなる程に疲れ果てて3いる。講演ハイの間は、そういう脳内物質でも出ているに違いない。

語学力が置いていかれた時

ここ最近は日本語での講演をしているばかりであった。日本語の母語話者である私にとっては、講演ハイによる思考も概ねは日本語がその基盤にある。なので、思考に対してそれを言語として表出するための加工を少ししてやるだけで話せる。これは例えば、語に助詞を付けるとか、それを適切に並び替えて文を構成するとか、そういった事である。時々、この日本語能力が講演ハイの思考速度に追いつけなくなって、少し変な日本語を発してしまう4事もあるが。また時々、講演ハイの思考が非言語的になる事もあって、そのような場合も日本語での表出が少し引っかかる事がある。

母語である日本語ですら時々そんな事になるので、これが英語だったら結果は言わずもがなである。自分がその講演で何を話す必要があるのか英語で書き下せと言われたら、それは別に何の問題もなく出来る。そもそも英語の講演資料自体も自分で作っている。ただ、講演ハイの思考速度に対しては、私の英語力では全くついてこれない。時間制約が無い状態で英語を読み書き出来るかという事と、話すその場で即座に対応する英語を表出出来るかという事は全く別の要件であって、後者に求められる能力は正直なところ足りていない。ここではこれを、英語の「瞬発力」とでも呼ぶ事にする。講演では基本的に自分から話すばかりなので、表出しなければいけない言語量とその密度の観点から、講演ハイのみに頼って英語講演に無策で臨めば、求められる英語の瞬発力は下手をしたら会話や質疑応答をも上回る。

勿論これは、無策で臨めば、の話であって、後述するように事前の対策をしておく事で英語講演に求められる英語の瞬発力の度合いは格段に減じられる。現実的には、そのような事前対策ができないという点で、会話や質疑応答の方が求められる瞬発力は上であろう。冒頭に述べた先日の数年ぶりの英語講演も、それなりに事前準備してから臨んだので完全にしどろもどろになった訳では無い。ただそれでも、講演の最中に瞬発力頼みになってしまった場面が二回か三回かあり、そこで発話が少し詰まってしまうという反省点があったのである。

原稿が読めない

上述のような、語学力的瞬発力が足りない時の対策としてまず第一に考えられるのは、講演原稿を事前に用意しておいてそれを読むようにする事であろう。原稿を読むだけの講演というのは良くないと言われるし、実際聞いている立場としてもあまり良い印象は持たないが、発話が完全に詰まるよりはマシであるという見方は出来る。

この原稿を読むというのが私には出来ない。講演そのものに慣れていない頃には原稿を作って読もうとした事もあるが、講演中、自分が原稿のどこまでを読んだか分からなくなってしまうのである。日本語原稿であったとしても、であり、これは今でも実はそうである。考えるに、原稿を読むだけのスタイルで臨むと、講演ハイに入る事が出来ない。講演ハイに入る前の私というのは、前述の通り酷く緊張しており、集中力に欠ける。そのような状態で一面に文字が詰まった原稿を見ている最中、目線がブレてどこまで読んでいたのかを見失う、という経験が学生時代5に数度あった。原稿ばかり見ているな、という指摘は当時からあり、意図して原稿から目を上げて聴衆の方を向いたりもしてみた。それこそ、最早そうしたら最後、原稿の元の位置にシームレスに戻ってくる事など出来ない。

その数度の経験の末、原稿を読む事はもう無理だと悟った。そこで、言いたい事を想起させるキーとなる内容を全て講演資料に散りばめておく事にした。実際の講演の場では、それらキーを画面に表示された講演資料から目で拾ってきて、足りない言葉を頭の中で補間して話すようにした。当初は、話すべき事がほぼ全て言葉で書いてある文字だらけの講演資料になった。ただ、慣れてくるに従ってその文字分量は減らせるようになってきている。この補間能力の増大は、前述の講演ハイの状態にも通じている。

ただ、講演ハイの時は、この補間能力が少々制御不能になっているきらいもある。元々話すつもりがなかった事を補間したり、補間し損ねた話題が発生したのに後から気付いて付け加えたりする事がある。いずれも、文脈上おかしい補間をしている訳では無いので、説明内容が狂うという事はない。ただ、原則として発表時間というものは限られているのであって、それに対するネガティブな影響があるのは否定できない。

発表練習と講演ハイ

原稿はそもそも読めず、かつ語学力的瞬発力の不足のために講演ハイだけでは乗り切る事も出来ない英語講演にあっては、最早残された手段は上述の通り事前の対策、即ち入念に発表練習しておく事のみである。件の英語講演も、前日の夜や当日の朝、ホテルの部屋に一人篭って、小言でブツブツと発表内容を繰り返していた。発表練習は、勿論、人に聞いてもらって行う方がより高い効果を得られるだろうが、淀みなく発表するという事に関しては、このような一人発表練習でも一定程度の効果はあると思う。

まず、一人であっても実際に言葉を原稿無しで口に出してみる事で6、語学力的瞬発力の不足が身に染みて実感できる。原稿は、用意したところで本番ではどうせ読めないので、最初から用意しない。そうして危機感を覚えつつ、まずはゆっくり、話すべき文を頭で組み立てて、実際に口に出す。これを講演の冒頭から最後まで、何度か繰り返す。そうすると、実際にそのまま口に出せる表現が頭に染み付いてくる。本番の講演にて演台に立ち、講演ハイに入った時、その記憶が足りない語学力的瞬発力を助けてくれるのである。そうして、概ね問題なく講演を終える事が出来る。

ただ、それでも「概ね」に留まってしまうのが解決出来ていない課題である。上述の、制御を失った講演ハイがここに効いている。講演ハイが、一人発表練習の時には浮かんでいなかった事を私に話させようとするのだ。その内容は勿論、文脈上も問題なく、後から振り返っても、むしろ入れられるなら入れた方が良いものだった。しかし、それを英語で話し始めようとした時、最初の二言三言までは出て来るものの、途中で語学力的瞬発力が足りなくなって詰まってしまうのである。むしろ、最初の二言三言までは勢いで出てしまっているので、最早引き返せないという点でよりタチが悪い。何とか言いたいことに対応する表現を捻り出し、文を繋げて乗り切ったが、見栄えの悪い瞬間であっただろう。

講演ハイを飼い慣らせるか?

講演ハイ自体が悪いものだとは全く思っていない。私が講演をするにあたって、最も生き生きと話が出来ているのは講演ハイに入っている間である。とある会7で私の講演を聞いていただいた仕事上の知人曰く、最初は疲れていそう・元気がなさそうだったのが、だんだん火がついて元気になってきていた、とのこと。その日は確かに元々疲れが溜まっていたが、講演ハイになればそんな事は忘れて元気に講演出来る。8

大体、発表する話題について、話すべき事が勝手に頭に浮かぶ位には良く理解していて、尚且つそれを人に伝えたいという熱意をもって講演していたら、多かれ少なかれ講演ハイになるのは不可避であり、抑制出来るようなものではないと考える。その制御不能な講演ハイが語学力を置き去りにして暴走した時にだけ問題が生じるので、それだけちょっとコントロールしてやれれば良い筈。

とはいえ、何であれハイになっているというのは、感情の制御が外れている状態である訳で。そんな中で言いたい事・言うべき事・言う準備が出来ている事を区別・制御するのは訓練が要りそうな感じ[^prohibit]ではある。講演ハイであっても、言うべきでない事・言ってはいけない事、の区別は今でも出来ているので、訓練で何とかなる領域にはありそう。

余談 ー 瞬発力を鍛えれば良いのでは

ところで、講演ハイの思考速度に語学力的瞬発力が追いつけないのが問題であるので、語学力的瞬発力=英語の方を鍛える事で解決できるだろうという声が飛んできそうである。そちらの方向性についてはここまで言及していないが、それ自体は至極もっともであると思う。

ただ、日本語を母語とする私の、日本語に基づく講演ハイの高速思考に対して、後から鍛えた英語の表出速度が追いつけるとはとても思えない。これでも、ちょっとした英語での会話や討議くらいであれば差し支えなくこなせる程度の英語の瞬発力はあるつもりでいる。それでも、頭の中の日本語思考に追いつけている訳では無い。


  1. しかし「プレゼンハイ」の方が語感が良いように思う。
  2. 典型的にはPowerPointのスライド。
  3. ついでに、喉にも結構な負担がかかって。
  4. そしてすぐに気づいて修正する。
  5. その頃は、そもそも講演ハイに入ること自体まだ出来なかったが。
  6. というより、口に出してみようとして盛大に口ごもってしまう事で。
  7. 冒頭紹介した先日の海外出張とは別件。国内での日本語講演。
  8. そして先述の通り、ハイが抜けた後にまとめて疲れが来るが。