先日の以下エントリの続き、のようなもの。 blog.kolmas.tech
このエントリで触れた、洗濯物の始末に関するある意味病的なこだわりについて、行動規範化されているというのは勿論そうなのだが、それだけではないようにも感じられる。
「庭」の美観
洗濯物を取り込んで、仕分けて畳んで整えておく作業を相変わらずしている。それら洗濯物はどうせすぐに再び利用するので、仕分けておくまではともかく美しく整理する事には実質的な意味があまり無い、ということは自分でも分かっているのだが、やめられない。
上掲のエントリで述べた通り、そうすることが私の行動規範になっていて、それに従う事が目的化している節はある。ただ、それに加えて、自分が手を出すからには自分の完璧に仕上げておきたいという、これまた以前のエントリで触れた内容にも通ずる感覚をも覚える。手を出すからには、中途半端にしておきたくない。美しく仕上げておきたい。逆に言えば、これは上掲エントリでも触れた事だが、全てにおいてその姿勢でいるのは不可能なので、あえて手を出さないでいる事も多々ある。
思うにこれは、私にとって「庭」であるらしい。もちろんこれは物理的な意味における庭の事ではない1が、自分の管理している領域を秩序をもって美しく整えるという作業が、庭仕事に近しいように感じられる。
「庭」の耐実用性
庭に関わる人間は、その庭を手入れしている庭師だけではない。その庭を訪れ、鑑賞し、あるいは活用する人間という存在が、庭師とは別に存在する。そういった意味での実用性が庭には求められる。実用上の要件を満たし、さらにその上で庭師が思うこだわりを発現したものが、良い庭というものであろう。例えば盆栽等は、土いじり・植物いじりという点、また作り手のこだわりが発現するという点で庭との共通点を持ちえども、実用上の要件を持たないという点が庭とは異なる。
その点で、先程来述べている私の洗濯物始末は「盆栽」ではなく「庭」である2。整理した洗濯物のうち、明確に私のものを除いた残り、即ち妻の服と子供服及び汎用的なタオル類、について日々実際に手に取る事が多いのは妻である。そこで、妻の行動パターンを想定したり、もしくは本人に聞くなどして、妻が使いやすいように区分けして整理したり、もしくは実際に服が必要となる場所3に予め配したりしておく。その上で、ここからは私の勝手なエゴ、即ち実用上の要件にはあまり当てはまらない領域として、個々の洗濯物はきれいに畳むようにしている。ここまでくると、気になり始めたら徹底しないと気が済まないという冒頭掲載エントリの話で、その点の病識はある。
そうして組み上げられた私の「庭」であるところの整理された洗濯物が、その想定通りに妻に使われているのを見るのは、シンプルに快感である。自分のデザインした系=システムが上手く回っている事に対する快感であるという点で、一応は私の専門である情報システム関連も含む、全てのエンジニアリングに通ずる感覚なのかもしれない。実際の庭仕事に関しては想像しか出来ないものの、自分が手入れしている庭を他の人がその想定通りに鑑賞したり活用したりしている様を見るのは、庭師の喜びなのではないかと思う。庭師はエンジニア職だったのだ。
「庭」の最適化
逆に、「庭」が想定通りに使われていないというのは問題である。これを一概に「庭」を使う側の責とするのはエンジニア的な傲慢である。そのような場面では、「庭」の設計自体に問題があることも多々ある。私も、「庭」を「庭」として維持する事については固執しているが、一度設計した「庭」の設計に固執しているつもりはない。
かの洗濯物整理に関しても、取り組み始めた当初からすると、その整理の考え方はかなり変化している。洗濯物が使われている様子をその結果から観測して、上手く使われていないところを特定し、そこがより上手く回るように整理の考え方を変更して試してみる。例えば上述の「実際に服が必要となる場所に予め配しておく」設計を導入したのは割と最近の事である。そうしておかないと、未整理の洗濯物の中から必要な服を妻に探させてしまう事象が発生する事に気付いたのだ。それは、妻の手間が増えてしまっているという点で気になるのは勿論であるが、それに加えて、洗濯物の整理という私の「庭」の機能不全であるという点でも看過出来ないものであった。ならどうすれば上手く回るのか、を考えた結果が「実際に服が必要となる場所に予め配しておく」である。「庭仕事」の手間は増えるが、それで「庭」の機能不全が解消されるのは快感である。
その点、「庭」に関して意見を言われる事についても、必ずしも嫌であるわけではない。現状の「庭」が使いづらいという意見が、論理的に筋が通ったものとしてあれば、それを受け入れて「庭」を改修するのは全くやぶさかではない。その意見に適合するように秩序を改めた「庭」を作れば良いのである。秩序あるシステムとして「庭」が機能していれば満足なのであって、そのためなら、自分の発案でなかったとしても秩序の更新は惜しまない。
「庭」荒らしの排除
それとは逆に「庭師」として受け入れ難いのが、秩序やポリシー等を伴わず「庭」に手出しされる事である。実用に即する秩序ある美観を整えてある私の「庭」が、無秩序に荒らされることは認め難い。勿論、現状の「庭」にシステムとしての使いにくさがあって、そのせいで本来想定された使い方をされていないのなら、それは「庭」の設計を改めるべき問題であって、上述の通りそうする事に何の躊躇いも無い。しかし、特にそういった理由もなく「庭」の構成を改められたり、もしくは散らかされたりする事が、感情的にどうしても受け入れられない。
具体的には、例えば先程来取り上げている洗濯物始末の話題、「庭仕事」としての洗濯物始末のプロセスに割り込まれないように、全て先回りして作業しておくことを意識している。例えば風呂場の脱衣所に設置してある洗濯機、これに洗濯・乾燥済の洗濯物4が残っている状態で、妻が子供らの風呂入れのために風呂場に来たとする。すると子供らは勝手に洗濯機のドアを開けて、中身を脱衣所に散らかしたりする。これが私の感情的に駄目なのである。子供らが、こういったものを散らかしたがるというのは仕方ないものと、理解してはいる。しかし、そうされることを私が認められないのは感情的・情動的な反応であり、それを前に「理解」など無意味である。理解で感情を抑えられないという事に対しては、アンガーマネジメントをもっと訓練しろよ、と言われるだろうが。どうあれそんな事が起こるので、こうなったら子供らが風呂にやってくる前に、先回りして洗濯物を取り込んで手出しされないようにしておく、というのが今の所の解決策である。
「庭」を荒らされる余地を残さない、という「庭」の設計をするのである。システムとして対処・解決するという事。そこまで含めて設計した「庭」の機能美を愛でるのだ。
「庭」の遺棄
とはいえ、そういった意味での「庭」のシステム化を突き詰められない領域は、特に子供らが関わる場面では多々ある。というより、未就学児である子供らを秩序だったシステムに組み入れるという事は不可能だろう。それも理解してはいる。
上述の洗濯物始末に関しては、その「庭」に子供らが割り込んでくる余地を排する事によって「庭」たらしめている。ただ生活の場でそのように出来る場面はむしろ希少である。例えばリビングには絵本をしまっている本棚がある。しばらく前までは、散らかった本を片付ける際、何となく絵本の内容やシリーズによって分類していた。しかし子供らは常に散らかすし、それを毎回私が片付けられる訳でもない。今の段階での「庭」としてのシステム維持は不可能であると悟り、分類整理は止めた。
ここでまた、冒頭掲載エントリの話が効いてくる。即ち、やるからには徹底したくなってしまい、逆に徹底出来ないものには手を付けない、という点である。絵本を美しく片付けるという「庭仕事」は不可能だと悟った瞬間、絵本の片付け自体をしなくなってしまった。絵本が散らかっている空間を別用途に使うために5、それらをまとめて無作為に本棚に放り込むくらいの事はするが、それは「絵本を本棚に片付けた」とは言わない。
そのようにして管理を断念した「遺棄された庭」は結構ある。勿論、出来るならそれら全てに再び「庭」の美しさを取り戻したいと思うが、その実現は現実的には無理である。気にして取り組み始めてしまうと徹底しないと気が済まないので、努めて気にしないようにして精神の安寧を守っている。守り切れずに小言が出てしまう事は多々あって、妻には大変申し訳ない所なのであるが。。。
視野狭窄の感はある
私のこのような振る舞いが、全体最適の視点を著しく欠いている事は自分でも良く分かっている。
洗濯物始末の「庭」にやたらとこだわって睡眠時間を削るより、睡眠時間を伸ばすなりその他の事に手を付けたりする方が良いに決まっている。徹底出来ないから手を付けないのではなく、それぞれを「てきとう」に済ませながら色々な事をした方が、系全体にとっては有益だろう。それは分かっているのだが、尚も細かい所に囚われて、その範囲での局所最適を目指してしまう事を止められない。視野狭窄である。先にエンジニアという言葉を出したが、真にエンジニアリングを突き詰めるなら系全体の最適を指向すべきであって、局所最適の追求に囚われてはいけない。生活の全てが、それ全体で一つの「庭」であるべきなのだ。
分かっているが、しかし止められない。やはり病的。