kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

網が好き

網が好きである。「あみ」ではなく「もう」、つまり広義のネットワークの事である。この嗜好がどうして成立したのかは分からないし、今もなぜ好きなのかと問われたら明確に答えられないのだが。

鉄道路線図を無限に見ていられる

関東圏のJR東日本沿線に住まう私にとって、通学・通勤時の電車内には昔から東京近郊路線図があった。以下リンク先にて「東京近郊路線図(車内掲出版)」として公開されている。 www.jreast.co.jp 通学中の暇な電車の中で、これをよく眺めていた。おかげで、大体どの辺でどの路線がどう繋がっているのか、何となくは捉えられている1。これは見ていて楽しい図である。

最近、子連れで東急に乗る機会が時々ある。こちらの車内にも、東急全線の路線図が掲示されていて、余裕がある時には眺めている。東急の全線路線図も、走っている地域が限定的な割に複数路線が入り乱れていて、見ていて楽しい。

大学時代は小田急ユーザであった。上述の東京近郊JRや東急と比べると、小田急の全線路線図はかなりシンプルである。その点で見応えは若干劣るものの、これも電車内で見かける度に眺めていた。

その点では、新幹線の路線図も、現状ではかなり直線的で見応えに欠ける。基本計画路線が全部通るような事があれば2、とても見応えのある路線図になりそうには思える。 ja.wikipedia.org どうやら私は、直線的なネットワークよりも、メッシュネットワークの方がより好みであるらしい。

大分昔にこんな本も買った。古今東西の様々な鉄道路線図が収められている。これもずっと見ていられる類の本である。

高速道路網と高速道路標識を愛でる

高速道路網も好きである。高速道路上に点在するインターチェンジやサービスエリア・パーキングエリア、さらに複数の高速道路を接続するジャンクションからなるネットワークを書き表した路線図を、これまたずっと見ていられる。首都高等の都市高速の路線図も良いし、広域輸送網を形作る全国の高速道路網の路線図もまた良い。

高速道路上、インターチェンジやジャンクションに設置されている緑色の標識も好きなものである。これらは、それぞれの場所の視点から局所的に高速道路網を説明していると言える。暇つぶしの一つに、Wikipediaの高速道路ジャンクションの記事を巡るというものがある。記事に掲載されている、ジャンクションの分岐点に設置されている標識の写真を愛でるのだ。

高速道路が子供の頃から身近なものだったということも影響しているかもしれない。父方の実家が高速道路利用で自宅から二時間程度かかる所にあり、年に数度そこまで墓参りに行っていた。一方、母方の実家はその半分程度の距離の所にあり、高速道路でも一般道でも行ける場所だった。運転する父親に、高速道路が良いとせがんでいた記憶がある3

ところでジャンクションといえば、例えば以下のような記事で見られるように、その構造体の格好良さを愛でるという界隈がある。 dailyportalz.jp 私も、ジャンクションという土木構造物に対して格好良いという感覚はあるので、このような記事も時々読む。ただ、その感覚は本エントリ主題の「網好き」の感覚とは違うようである。ジャンクションそれ自体も、ミクロ視点で見れば、分岐と合流を繰り返す網であると言えそうだが、それに対して「網好き」の感覚は働かない。不思議である。

その視点で先の鉄道の話題に戻ると、駅や車庫のような拠点の配線図にもあまり興味がない。これも網であるはずだが。以下のようなサイトを見ると、面白そうだな、とは思うのだが、上述のような路線図を見たとき程のときめきは感じない。これも不思議である。 www.haisenryakuzu.net

コンピュータネットワークとルーティング

一応コンピュータ関連を専門領域にする者として、網の話をするならコンピュータネットワークの話題は欠かせない。

例えば以下のようなウェブサイトなど見ていて楽しい。ここでは、インターネットを支える海底ケーブルの敷設状況を可視化している。 www.submarinecablemap.com

このようなL1=物理層の話題に関しては、この「網好き」の感覚が良く働く。特に、それこそ上掲の海底ケーブルにも当てはまる事だが、広域接続の話題が好みであるようである。ホームネットワーク等の末端ネットワークにおける大方のネットワークトポロジはスター型であり、ある意味単調で「網好き」の感覚があまり働かない4。これは上述の鉄道網の好みの違いにも通じる感覚であるようだ。

そして、L2・L3になってくると、これまた「網好き」感覚があまり働かない。物理的な意味でのネットワークの上で、どのような流れで情報を通すか、という観点は「網好き」感覚からは離れた所にあるらしい。尚、L2・L3の仕組みも、それはそれで私にとって面白いものではある。それらはレイヤが違うとはいえ不可分な話題であるので、好みの機序が分かれるのは不思議である。

その観点に気付いてみると、鉄道網や高速道路網にも同様の感覚があるように思える。即ち鉄道網でいえば、網を愛でる感覚は、その網の上を走る列車や、そこに乗る乗客のルーティングには、当てはまらない。むしろ、どのようなルーティングがなされる事になるかを想像しながら、物理的な網を愛でている。高速道路網についても同様である。

幹線網が好き?

ここまで書いてきて浮かぶもう一つの不思議な点は、どうやら私は幹線の網が好きらしいという事である。

道路網で言えば、先程来話題にしている高速道路であるとか、もしくは国道・県道などの幹線が構成する網を好む一方で、地域の生活道路のようなものにはそれほど興味がない。これも明らかに網である筈だが。網の末端という意味では上述の末端コンピュータネットワークの話題にも似ている気がするが、生活道路などというものはそれこそ複雑なメッシュネットワークであって、先の話題はそのまま当てはまらない。

ネットワークの節5の密度が高過ぎるのが、どうも好みでないらしい。その理由は恐らく二つある。

  • 単純に、その網を愛でようとした時に、頭の中で網の全体像を把握しきれない。把握しきれないものを愛でようがない。
  • 鉄道網や高速道路網等、物理的に節を多く置けない低密度な網において、その制約の中で網がどのように設計されているのかが面白い。

上述の、個々のインターチェンジやジャンクションの分岐・合流の構造や、鉄道における拠点の配線図等といった、ミクロ網に対して「網好き」感覚が働かない事も、同じ理由で説明出来そうな気もする。その粒度で考え始めたらマクロ視点での網の全体像は把握しきれなくなるし、マクロ視点でいる方が楽しいのだ。

物理的な広域インフラの設計を愛でる

ここまでの考えをまとめると、私の好きな網は、メッシュ状の広域接続を担う物理的なインフラをマクロに捉えたものである、と言えそうである。鉄道網も高速道路網も、インターネットの物理的な広域インフラも、これに当てはまる。

インフラといえば、分野を問わずインフラ屋さんには頭が上がらない。問題なく動いている間は特に感謝もされないのに、問題が起こった時にはひたすらに批判される不条理。インフラ屋さんへの感謝を忘れずにいつつ、その仕事の結晶たる網を愛でるのである。

余談 ー Mini Metroは良いぞ

Dinosaur Polo Club社が開発したゲーム「Mini Metro」は、「網好き」の心に響くとても良いゲームである。時間と共に増大する駅と乗客を捌く地下鉄路線網を作るパズルゲームである。一ゲームの時間がとても長いという類のものではないが、気付くと時間が溶けている系のゲームである。 dinopoloclub.com

同社のゲームには道路網を敷設する「Mini Moterways」もあって、こちらも楽しい。ただし、「網好き」の観点のみから見るとMini Metroの方が強く刺さる。Moterwaysの方は、出来る限り交差点を作らないのが高スコアの肝なのだ。 dinopoloclub.com


  1. 千葉方面はちょっと自信がない。
  2. そんな事は少なくとも私の生きているうちには起こりえまいが。
  3. 有料だからと渋られていた記憶もある。
  4. 「網好き」に引っかからないだけで、興味は普通にある。今の家を建てる時には、ハウスメーカと調整して家中に有線・無線両方のネットワークを張り巡らせた。
  5. 鉄道網であれば駅、高速道路網であればインターチェンジやジャンクションが、それぞれネットワークの節といえる。生活道路で言えばありとあらゆる交差点が節といえる。

寝正月(広義)

あけましておめでとうございます。

昨日の夕方に急に書類書きをする必要が生じて、徹夜で書き上げ、朝食におせちを食べて、その後は反動で夕飯時までずっと寝ていた。これが本当の寝正月か?

36歳、十二支三周目の体力の無さよ。二周目の頃は二徹くらい出来た1はずだが、衰えている。


  1. その反動で一週間ほど寝込んだりしたものの。

魂込めて書かんかい

このブログのエントリは、一応全て私が手ずから書いている。コンピュータを使っているのに「手ずから」とはどういう事か、という気もするが、昨今流行りの自動生成はしていないという意味である。誤植等が紛れている可能性は十分あり、その点はご容赦頂きたい。

尚、本エントリの前提として、特に断らない限り、これは日本語を母語とする私が日本語の文書について考えている事である。

入魂、というか魂が削れる

本エントリの表題「魂込めて書かんかい」は、前々回エントリ前回エントリでちらっと出てきた、大学・大学院時代の私の指導教官の口癖の一つである。かのエントリはあまり良い印象を与えない内容になってしまっていたが、指導教官の事は尊敬もしているし感謝もしている1。その指導教官が、論文指導において良く言っていた言葉である。曰く、真剣に書かれていない=魂の込められていない文章は見れば分かり、そしてそれは実に印象2が悪い、と。これを初めて言われた頃はともかく、論文誌の査読委員をしたり、後輩や同僚の文章添削をしたりするようになった今は、理解できる感覚である。

自らが執筆する文章に対する愛、という感覚にも近しいかもしれない。愛を持つが故に、その文章が出来得る限り最上のものになるよう心血を注ぐのである。そうして文章、例えば一編の論文を書き上げると、かなり精神が磨耗している感がある。魂が削れている、とでも言うか。その点、自ら能動的に「魂を込める」事が出来ているという実感はあまり無いのだが、上述の「削れ落ちた」分の魂は、執筆した文章にしっかりと注ぎ込まれているに違いない。その自分的には珠玉の文章について添削・赤入れを依頼し、時にこてんぱんにされて帰ってきたりした日には結構めげる所もあるが、それでも、自分の文章3をより良いものに研ぎ澄ます過程と思えば建設的に受け入れられる。

このように、自らの意図・見解等を注ぎ込んだ、ある意味自分の半身とも呼ぶべき文章を美しく仕立てていく事は、物書きを生業とする者にとっては当然の事であると思う。大学院を離れた後の私も、学術論文こそ書いてはいないものの仕事の一部は物書きであり、大学・大学院時代に身に付けたこの感覚は役に立っている。尚、本エントリ冒頭でこのブログに紛れているかもしれない誤植について言及したが、仕事での物書きに関しては、自分からそんな予防線を張るようなクオリティで出すつもりはない4。このブログはあくまで余暇活動であり、そこまでの高クオリティは狙っていない。

魂の込め方が足りない文章

そんな事を考えて物書きをしたり、もしくは人の文章を読んだりしていると、世の中に愛なく仕立てられた文章の多い事、という気持ちになる。

誤字脱字や変換ミスに始まり、「てにをは」の誤り、主述の不一致、係り受けの不整合5、慣用表現の誤り等々、適当に書いていると日本語を母語としていても紛れてしまうミスはある。とはいえこれらは、書き上げた後に精読すれば大方発見できるものであって、眼力で紙に穴が開くくらい読み込むべしと思っている。もしくは、慣れてくれば書きながら同時に潰したり、そもそも発生を抑止したりする事もできる問題だと思う。いずれにせよ、自分の半身であるところの文章について、このような極めて初歩的かつしょうもない瑕疵を残したまま表に出すなどという事は許し難い。それをやってしまった時の感情は最早、自らに対する敗北感・屈辱感と言うに相応しい何かである。6

また、よりマクロな問題としては、客観的に見た時の論理・展開の飛躍や破綻がある。これは書いている本人からは気付きにくいものである。文章は筆者が持つ知識・情報を前提として書かれる。自分の中での前提というものは当たり前すぎる存在で、筆が乗っている時には特に、書いている文章の中から抜け落ちがちである。そうすると、書いている本人にとっては整合が取れていても、読み手にとっては飛躍や破綻を感じる文章が仕上がる。その点で、想定される読み手の視点から自分の文章を読み返すという事は重要であり、先入観排除のために自分以外の誰かに読んでもらうのも良い。その過程にかかる労力を惜しむべきではない。先の表現で言うなら、文章というものは書き手の半身なのだから、書き手の中にある前提も含め、読み手が欲する書き手の全てが投影されていなければならない。

そのような事を意識し続けて魂の込められた文章を書いていると、「味」とでも言うのか、書き手毎に固有の雰囲気が段々と出てくるように感じる。日本語の癖と言っても良いかもしれないが、それだけでも無いように思う。多分に定性的というか、感覚的な概念なので、明確に説明するのは難しいのだが、確かに何かがあると感じる。7

そもそも魂がない文章

その視点に立つと、「味」が入り混じって滅茶苦茶だったり、そもそも「味」を感じない文章も見かける。様々な元文章のコピペ・切り貼りによるものや、生成AIによる生成物などである。もっとも、生成AIのものに関しては、「生成AI味」を感じる事もあるが。以前のエントリで述べた「謎眼力」に近しい感覚かもしれない。

切り貼りして作られた文章は、雑なものであれば、一度見れば切り貼りである事が想像できる。「味」に統一感が無いのである。例えば、句読点の打ち方に「、。」式と「,.」式8が混ざっている文章を見た事がある。ここまで露骨だとすぐに、切り貼りして作ったんだなという疑いの上で当該文書を読むようになる。実際、その疑いは当たっている9事が多い。そこまで露骨でないにしても、複数の書き手の癖が妙に区切れよく混ざっている文章は時々見かけ、その手の文章は既存文章の切り貼りである事が多い。そのような文章に、書き手の半身である所の魂など宿っている筈がない。尚、上述の自分以外の誰かによる推敲の結果として文章の癖が混ざるという主張もあるかもしれないが、その誰かのコメントを無思考に反映するのではなく、自分の理解に落とし込んで受け入れれば、そうはならない。

さらには、今日日流行りの生成AIである。明らかに生成AIに書かせた結果そのまま、という文章が公開されているのに触れるにつけ、優れた技術であるにも関わらず、それに追い付けずに衰退する人類知性を見るようで暗澹たる気持ちになる。上記のコピペ切り貼りとは違って、書き手が混ざっているような違和感こそ無いものの、それでも何処となく感じられる魂の無さがある。あの空虚さがどこから来るものなのか、具体的に明文化する事はまだ出来ていないのだが、ただ空虚であるという感を受ける。整った言葉でまとまってはいるものの、書き手のものではない借りてきた言葉で出来ている感というか。その、文章として整っているのに魂が感じられないという不気味さが、私にとっては、先述の「生成AI味」として感じられるのかもしれない。

物書きの矜持は

少し前に、某小説投稿サイトで生成AIにより作成された作品がランキングを席巻した、というニュースを見た。1日に数十本の小説を投稿するユーザもいるとか。

世の中、別に魂が込められている必要などない文章、というものもあるだろうと思っている。議事録などはその典型例であろう。むしろ、下手に書き手の色を出すべきではない類のものである。そういった文章を生成AIにまとめさせる、というのは理にかなっていると思う。書き手の色を出せないにも関わらず手間だけはやたらとかかる議事録のような文章は人の作業から離してしまって、人はその分だけ別の作業をした方が良い。ただそれでも、少なくとも現状では生成AIの出力をそのまま鵜呑みには出来ないので、それを人目で確認する工程10が必要ではあるが。

一方で上掲の小説とか、もしくは書き手の名を出して対外公開される論文・論説とか、そういったものを生成AIに書かせるという感性は理解し難い。書き手の名が広く押し出される以上、その文章は上述の通り書き手の半身である。その半身を介して書き手の心理・論理・知識・理解・その他諸々、を伝えるのが物書きというものの矜持ではないのか。それを生成AIに任せてしまった時、例えその文章が何らかの成功につながったとしても、それは書き手の半身とは最早呼べまい。1日数十本の小説など、投稿者が個々の内容に目を通しているとはとても思えない。そのようなものは投稿者の半身ではない。

件の某小説投稿サイトのニュースの件については他にも思う事はある11が、まず第一に、生きるためという訳でもなかろうに物書きの矜持無しに物書きをするというのが、全く理解できないのである。この、魂の込められていない文章を量産するという事についても、もしくは、前半で述べたような魂の足りない文章を平気で出せるという事についても。

余談 ー 英文の魂

私は一応、英文もそれなりには書けるつもりではある。国際学会や海外論文誌に投稿したこともあるし。ただ、英文を読んだ時に魂の有無を見定める事が出来るほどには、英語に習熟していない。英語の母語話者から見たら、私の英文などは魂が込められていないと見えるのだろうか。


  1. 同時に恐れてもいる事は否定しないけれども。
  2. 指導教官の発言意図としては、査読者の印象。
  3. 私が初めて書いた一枚の予稿など、今になって初稿を見ると実に酷いもので、実際指導教官の赤入れによって真っ赤になって帰ってきた。ここまで来ると正直、自分の文章とは?という気持ちにならない事もない。
  4. それでもときたま誤植が入ってしまった事は、実績として存在するのだが。
  5. 連体句が用言に係っているとか、その逆とか。
  6. 仕事での物書き程のクオリティではないとはいえ、このブログにおいても、そのような時には自らへの敗北と屈辱を感じる。
  7. 私個人の話としては、「らしさ」ではあるけれど君の文章は硬すぎる、と言われる事多し。もう少し柔らかめに、という方向の修正をよく頂く。
  8. 工学分野で頻繁に見られる記法。
  9. 即ち、剽窃元が容易に見つかる。
  10. それが文責というものであろう。
  11. それはまた別エントリにまとめたい。

未だ悪夢を見る

久々に外泊有りの出張中1である。とはいえ今日はもう帰るだけだが。

昨日の夕方に出張の用務は完了し、食事をして土産も買って、20時頃にはやる事が無くなった。疲れてもいたし、久々に早めに寝るかと思って寝床に入る。最近は寝不足続きなのもあって即寝落ち。ただ、久々の早寝に加えて慣れない寝床だからか、三時間毎に目覚め、今は丁度三度寝から目覚めた所である。

最初の三時間は良かった。しかし、二度寝・三度寝の際は久々に悪夢を見た。大学研究室で指導教官に詰められる夢である。大学研究室を離れてもう数年経つが、夢を見る時2は、シチュエーションは細かく違えど常にこの夢である。とても生々しい夢であり、心臓をバクバクさせながら起きた直後は、それが夢で現実ではないという事を意識するのに少し時間がかかる。寝不足は辛く体調に堪えるが、十分に寝たなら寝たで悪夢を見るようになる。良い落とし所はあるのか。

今はここしばらくの寝不足が祟ってまだ眠い。時間にはもう少し余裕があり、寝付けそうでもあるので、四度寝を試みる。


  1. 子供産まれたばかりであるにも関わらずそんな事をしていて、妻には大変申し訳ない。
  2. 正しくは、見た夢を覚えている時、という事か。

折れた心でリチャード・ハミング博士の"You and your research."

リチャード・ハミング博士は、コンピュータ屋の界隈では情報理論・符号理論に関する偉人として知られている。氏の成果の有名どころとしては、ハミング符号、ハミング距離、ハミング窓関数等が挙げられる。 ja.wikipedia.org

氏の講演"You and your research."の講演録を初めて読んだのは大学学部生の頃だった。当時は、研究室での活動が純粋に楽しくて、丁度初めての国際学会発表をしていた頃で、その時に読んだこの講演録には只々格好良さと「こうありたい」という憧れを感じるばかりだった。その後大学院に進学し、その中で心が折れ、今は学術研究から離れた世界で仕事をしている身として、改めて同講演録を読んで思うことをつらつらと書いてみる。今になってこれを読むのは、何と言うか、精神的な意味で一種の自傷行為であったようにも思うが。

講演録の原典は以下で公開されている。 www.cs.virginia.edu 日本語訳も様々なものが見つかる。私が初めて読んだのは、以下の今津氏による日本語訳であった。本エントリも、この今津氏訳を元に書き進める事にする。 archive.himazu.org

尚、同講演録については、私にとっては自傷行為などと言ってはいるものの、研究者を志す人ならば必ず読んでおくべきものだと思う。

情熱と傾倒

「私がまだプロレスを志してすぐの頃 私にはプロレスしかなかった」 「いや 自分にはプロレスしかないんだと思い込んでいました」 「実際は社会に参加することが怖くてプロレスに逃げ込んでいたのかもしれません」 「そうしたらある日気が付いて」 「本当に自分にはプロレスしかなくなってしまっていたんです」 --小林銅蟲 寿司 虚空編 三才ブックス

私には、この「寿司 虚空編」の登場人物「メの字」1の台詞が強く刺さる。

本講演におけるハミング博士の主張の一つに、偉大な研究を成し遂げるためには、その研究に対する情熱・傾倒が必要であるという事がある。それは生半可なものではない。無意識すらも研究の事を考え始める、即ち意識の中では常に研究の事を考え続けている程の傾倒が求められている。成果は複利であり、この傾倒の有無が最終的には極めて大きい差を作り出す。

その点で私には、上記の研究室活動が純粋に楽しかった時期においてすら、それ程までの傾倒は無かったように思う。サークル活動もせず、授業の空き時間や授業後の夕方〜夜には研究室に入り浸るという生活は、周囲の学生と比べればかなり研究に振り切ったものだったろうが、それでもハミング博士の言う段階には至っておるまい。一人暮らしのアパートに帰ればゲームなどして過ごしたりもしていて、それを変える訳でもないのに、上述のようにハミング博士の講演に憧憬を抱くなど、今思えば自己矛盾も良いところである。無論、ハミング博士の主張は研究以外に何もない人間になれというものではない。しかしそれでも、今から思い起こすに、私の傾倒は不十分だったのだと思う。

博士課程在学中にメンタルが挫けていた頃、ある時フランクに指導教官と話せるタイミングがあり、ふと「学部生の頃の私は何故あんなに元気に取り組めていて、論文を書く事まで出来ていたのでしょう。」と、半分以上が弱音の問いかけをした2事がある。指導教官からの回答は極めて単純明快で、学部生の頃は自分3がかなりサポートしていたから、であった。とても腹落ちする回答4だった。あの程度の傾倒具合で成果を出せていたのは、そのような下駄を履かせていただいていたからである。逆に言えば、その頃の私は、研究活動が面白いなどと宣いながら、真の意味でそれに傾倒していた訳ではなかった。本節冒頭に引用した「メの字」と同様な存在であった。

勇気

加えて思うに、当時の私の研究に対するあたり方、その動機もまた不純であった。当初は純粋に研究ネタが興味深かった5。そしてそのうちに、自分が成した事が認められる事への嬉しさが動機に加わった。それは具体的には、査読付会議への採択や論文の採録である。無論、採択・採録される事単体で研究の価値が証される訳ではないが、少なくともそれらは形を残すという点で分かりやすくはある。しかしこれを逆に捉えれば、それら分かりやすく形のある成果を出せなくなった時に、上述したように容易にメンタルが挫けうるという事でもある。

上掲の講演において、ハミング博士は研究者の勇気について触れている。重要な問題を解決出来ると信じて考え抜ける勇気であり、研究者に必要なものであると述べている。その勇気は必ずしも最初から持っているものとは限らず、一度の成功から得られる自信が、その後の研究活動における勇気の源泉たる事もある。氏は講演でその実例を二人紹介している。

当時の私の自信の如何に脆かったことか。上述の研究活動の動機に紐付いて私の研究活動における自信の源泉であったもの、即ち認められること、平たく言えば対外発表の採択・採録は、「自信」を「自ずから信じる」と読むなら、他者の評価に依存しているという点においてそもそも自信ではなかった。その脆弱な基盤の上に、ハミング博士が講演で述べるところの勇気は持ちえなかった。それに気付いたら、まさに上掲「メの字」が言うところの、それしかなくなってしまっていた、という恐怖感がやってきた。

その視点から振り返ってみれば、指導教官の佇まいには、研究上の課題について必ず解決できるという自信、もしくは必ず解決するという執着に近しい何かがあったように思う。それらは勇気を必要とするもので、私とは違ってそれをお持ちだった。この「私とは違って」というのも言い訳である。指導教官はその類の弱音には嫌悪感を持たれていて、そんな事を考える余地は存在せずただがむしゃらに取り組むしかない、というような事を言われた。それは全くその通りなのだが、それが出来ないという話で、私は挫けた。指導教官からすれば、自分が達成せんと無限の勇気で取り組んでいる研究室活動においてそのような腑抜けが足を引っ張っていた訳だから、私への当たりがキツくなるのも宜なるかな

普遍性がある

ハミング博士の同講演では上記の他にも様々な事柄について触れているが、研究者くずれの私の身に特に強く刺さる凶器は上述の二点である。ここまで書いてみて、この書く行為もまた、やはり自傷行為だったように思う。正直に言って、改めてめげている。

一方で、上述の二点にしてもそれ以外の内容にしても、ハミング博士の主張はまさにその通りだと感じることには今も変わりはない。学部生の時に感じた、本講演が持つ燦然たる格好良さは色褪せていない6。そしてこの内容は、研究活動に限らず、課題解決に創造性を要する様々な仕事に共通に成立する普遍的な原則であるようにも感じる。学術研究のような先進性はないにせよ、今でも多少はその傾向がある仕事をしている身として、時折思い起こしたいものである。

余談 ー それでも逃げる選択肢

ただ、このハミング博士の講演の内容に忠実であろうとすると、物事から逃げられなくなるという問題がある。学術研究の世界を去った、というよりそこから逃げ出した身が言うと自己正当化にしか聞こえないが、逃げずに留まり続けて挫けて病むくらいだったら、早々に逃げ出した方が良い場合もある。病んでいるうちは何の成果もない。少なくとも私は、もっと早いうちから逃げる事を選択肢に入れておくべきだったとは思っている。

逃げているばかりでは大きな成果を成し遂げる事は出来ない。これはハミング博士の講演内容からしても明らかである。大学院時代に指導教官から散々言われた事でもある。しかしその一方で、逃げずに踏みとどまった結果として病んでしまっても同様である。その匙加減がとても難しい。


  1. 作中で、リングネーム「綿花製品・アストラル・気持ち・御覧下さい・仮面」を略してそう呼ばれている。
  2. 「した」というより、「してしまった」とも言えよう。
  3. つまり指導教官。
  4. 同時に、更にメンタルを折ってくるものでもあった。勿論、指導教官に私のメンタルを折る意図は無かっただろうけれども。
  5. 上述の通り、今から思えば補助輪付きだった訳だが。
  6. 眩しすぎて直視できなくなった、とも言える。