kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

魂込めて書かんかい

このブログのエントリは、一応全て私が手ずから書いている。コンピュータを使っているのに「手ずから」とはどういう事か、という気もするが、昨今流行りの自動生成はしていないという意味である。誤植等が紛れている可能性は十分あり、その点はご容赦頂きたい。

尚、本エントリの前提として、特に断らない限り、これは日本語を母語とする私が日本語の文書について考えている事である。

入魂、というか魂が削れる

本エントリの表題「魂込めて書かんかい」は、前々回エントリ前回エントリでちらっと出てきた、大学・大学院時代の私の指導教官の口癖の一つである。かのエントリはあまり良い印象を与えない内容になってしまっていたが、指導教官の事は尊敬もしているし感謝もしている1。その指導教官が、論文指導において良く言っていた言葉である。曰く、真剣に書かれていない=魂の込められていない文章は見れば分かり、そしてそれは実に印象2が悪い、と。これを初めて言われた頃はともかく、論文誌の査読委員をしたり、後輩や同僚の文章添削をしたりするようになった今は、理解できる感覚である。

自らが執筆する文章に対する愛、という感覚にも近しいかもしれない。愛を持つが故に、その文章が出来得る限り最上のものになるよう心血を注ぐのである。そうして文章、例えば一編の論文を書き上げると、かなり精神が磨耗している感がある。魂が削れている、とでも言うか。その点、自ら能動的に「魂を込める」事が出来ているという実感はあまり無いのだが、上述の「削れ落ちた」分の魂は、執筆した文章にしっかりと注ぎ込まれているに違いない。その自分的には珠玉の文章について添削・赤入れを依頼し、時にこてんぱんにされて帰ってきたりした日には結構めげる所もあるが、それでも、自分の文章3をより良いものに研ぎ澄ます過程と思えば建設的に受け入れられる。

このように、自らの意図・見解等を注ぎ込んだ、ある意味自分の半身とも呼ぶべき文章を美しく仕立てていく事は、物書きを生業とする者にとっては当然の事であると思う。大学院を離れた後の私も、学術論文こそ書いてはいないものの仕事の一部は物書きであり、大学・大学院時代に身に付けたこの感覚は役に立っている。尚、本エントリ冒頭でこのブログに紛れているかもしれない誤植について言及したが、仕事での物書きに関しては、自分からそんな予防線を張るようなクオリティで出すつもりはない4。このブログはあくまで余暇活動であり、そこまでの高クオリティは狙っていない。

魂の込め方が足りない文章

そんな事を考えて物書きをしたり、もしくは人の文章を読んだりしていると、世の中に愛なく仕立てられた文章の多い事、という気持ちになる。

誤字脱字や変換ミスに始まり、「てにをは」の誤り、主述の不一致、係り受けの不整合5、慣用表現の誤り等々、適当に書いていると日本語を母語としていても紛れてしまうミスはある。とはいえこれらは、書き上げた後に精読すれば大方発見できるものであって、眼力で紙に穴が開くくらい読み込むべしと思っている。もしくは、慣れてくれば書きながら同時に潰したり、そもそも発生を抑止したりする事もできる問題だと思う。いずれにせよ、自分の半身であるところの文章について、このような極めて初歩的かつしょうもない瑕疵を残したまま表に出すなどという事は許し難い。それをやってしまった時の感情は最早、自らに対する敗北感・屈辱感と言うに相応しい何かである。6

また、よりマクロな問題としては、客観的に見た時の論理・展開の飛躍や破綻がある。これは書いている本人からは気付きにくいものである。文章は筆者が持つ知識・情報を前提として書かれる。自分の中での前提というものは当たり前すぎる存在で、筆が乗っている時には特に、書いている文章の中から抜け落ちがちである。そうすると、書いている本人にとっては整合が取れていても、読み手にとっては飛躍や破綻を感じる文章が仕上がる。その点で、想定される読み手の視点から自分の文章を読み返すという事は重要であり、先入観排除のために自分以外の誰かに読んでもらうのも良い。その過程にかかる労力を惜しむべきではない。先の表現で言うなら、文章というものは書き手の半身なのだから、書き手の中にある前提も含め、読み手が欲する書き手の全てが投影されていなければならない。

そのような事を意識し続けて魂の込められた文章を書いていると、「味」とでも言うのか、書き手毎に固有の雰囲気が段々と出てくるように感じる。日本語の癖と言っても良いかもしれないが、それだけでも無いように思う。多分に定性的というか、感覚的な概念なので、明確に説明するのは難しいのだが、確かに何かがあると感じる。7

そもそも魂がない文章

その視点に立つと、「味」が入り混じって滅茶苦茶だったり、そもそも「味」を感じない文章も見かける。様々な元文章のコピペ・切り貼りによるものや、生成AIによる生成物などである。もっとも、生成AIのものに関しては、「生成AI味」を感じる事もあるが。以前のエントリで述べた「謎眼力」に近しい感覚かもしれない。

切り貼りして作られた文章は、雑なものであれば、一度見れば切り貼りである事が想像できる。「味」に統一感が無いのである。例えば、句読点の打ち方に「、。」式と「,.」式8が混ざっている文章を見た事がある。ここまで露骨だとすぐに、切り貼りして作ったんだなという疑いの上で当該文書を読むようになる。実際、その疑いは当たっている9事が多い。そこまで露骨でないにしても、複数の書き手の癖が妙に区切れよく混ざっている文章は時々見かけ、その手の文章は既存文章の切り貼りである事が多い。そのような文章に、書き手の半身である所の魂など宿っている筈がない。尚、上述の自分以外の誰かによる推敲の結果として文章の癖が混ざるという主張もあるかもしれないが、その誰かのコメントを無思考に反映するのではなく、自分の理解に落とし込んで受け入れれば、そうはならない。

さらには、今日日流行りの生成AIである。明らかに生成AIに書かせた結果そのまま、という文章が公開されているのに触れるにつけ、優れた技術であるにも関わらず、それに追い付けずに衰退する人類知性を見るようで暗澹たる気持ちになる。上記のコピペ切り貼りとは違って、書き手が混ざっているような違和感こそ無いものの、それでも何処となく感じられる魂の無さがある。あの空虚さがどこから来るものなのか、具体的に明文化する事はまだ出来ていないのだが、ただ空虚であるという感を受ける。整った言葉でまとまってはいるものの、書き手のものではない借りてきた言葉で出来ている感というか。その、文章として整っているのに魂が感じられないという不気味さが、私にとっては、先述の「生成AI味」として感じられるのかもしれない。

物書きの矜持は

少し前に、某小説投稿サイトで生成AIにより作成された作品がランキングを席巻した、というニュースを見た。1日に数十本の小説を投稿するユーザもいるとか。

世の中、別に魂が込められている必要などない文章、というものもあるだろうと思っている。議事録などはその典型例であろう。むしろ、下手に書き手の色を出すべきではない類のものである。そういった文章を生成AIにまとめさせる、というのは理にかなっていると思う。書き手の色を出せないにも関わらず手間だけはやたらとかかる議事録のような文章は人の作業から離してしまって、人はその分だけ別の作業をした方が良い。ただそれでも、少なくとも現状では生成AIの出力をそのまま鵜呑みには出来ないので、それを人目で確認する工程10が必要ではあるが。

一方で上掲の小説とか、もしくは書き手の名を出して対外公開される論文・論説とか、そういったものを生成AIに書かせるという感性は理解し難い。書き手の名が広く押し出される以上、その文章は上述の通り書き手の半身である。その半身を介して書き手の心理・論理・知識・理解・その他諸々、を伝えるのが物書きというものの矜持ではないのか。それを生成AIに任せてしまった時、例えその文章が何らかの成功につながったとしても、それは書き手の半身とは最早呼べまい。1日数十本の小説など、投稿者が個々の内容に目を通しているとはとても思えない。そのようなものは投稿者の半身ではない。

件の某小説投稿サイトのニュースの件については他にも思う事はある11が、まず第一に、生きるためという訳でもなかろうに物書きの矜持無しに物書きをするというのが、全く理解できないのである。この、魂の込められていない文章を量産するという事についても、もしくは、前半で述べたような魂の足りない文章を平気で出せるという事についても。

余談 ー 英文の魂

私は一応、英文もそれなりには書けるつもりではある。国際学会や海外論文誌に投稿したこともあるし。ただ、英文を読んだ時に魂の有無を見定める事が出来るほどには、英語に習熟していない。英語の母語話者から見たら、私の英文などは魂が込められていないと見えるのだろうか。


  1. 同時に恐れてもいる事は否定しないけれども。
  2. 指導教官の発言意図としては、査読者の印象。
  3. 私が初めて書いた一枚の予稿など、今になって初稿を見ると実に酷いもので、実際指導教官の赤入れによって真っ赤になって帰ってきた。ここまで来ると正直、自分の文章とは?という気持ちにならない事もない。
  4. それでもときたま誤植が入ってしまった事は、実績として存在するのだが。
  5. 連体句が用言に係っているとか、その逆とか。
  6. 仕事での物書き程のクオリティではないとはいえ、このブログにおいても、そのような時には自らへの敗北と屈辱を感じる。
  7. 私個人の話としては、「らしさ」ではあるけれど君の文章は硬すぎる、と言われる事多し。もう少し柔らかめに、という方向の修正をよく頂く。
  8. 工学分野で頻繁に見られる記法。
  9. 即ち、剽窃元が容易に見つかる。
  10. それが文責というものであろう。
  11. それはまた別エントリにまとめたい。

未だ悪夢を見る

久々に外泊有りの出張中1である。とはいえ今日はもう帰るだけだが。

昨日の夕方に出張の用務は完了し、食事をして土産も買って、20時頃にはやる事が無くなった。疲れてもいたし、久々に早めに寝るかと思って寝床に入る。最近は寝不足続きなのもあって即寝落ち。ただ、久々の早寝に加えて慣れない寝床だからか、三時間毎に目覚め、今は丁度三度寝から目覚めた所である。

最初の三時間は良かった。しかし、二度寝・三度寝の際は久々に悪夢を見た。大学研究室で指導教官に詰められる夢である。大学研究室を離れてもう数年経つが、夢を見る時2は、シチュエーションは細かく違えど常にこの夢である。とても生々しい夢であり、心臓をバクバクさせながら起きた直後は、それが夢で現実ではないという事を意識するのに少し時間がかかる。寝不足は辛く体調に堪えるが、十分に寝たなら寝たで悪夢を見るようになる。良い落とし所はあるのか。

今はここしばらくの寝不足が祟ってまだ眠い。時間にはもう少し余裕があり、寝付けそうでもあるので、四度寝を試みる。


  1. 子供産まれたばかりであるにも関わらずそんな事をしていて、妻には大変申し訳ない。
  2. 正しくは、見た夢を覚えている時、という事か。

折れた心でリチャード・ハミング博士の"You and your research."

リチャード・ハミング博士は、コンピュータ屋の界隈では情報理論・符号理論に関する偉人として知られている。氏の成果の有名どころとしては、ハミング符号、ハミング距離、ハミング窓関数等が挙げられる。 ja.wikipedia.org

氏の講演"You and your research."の講演録を初めて読んだのは大学学部生の頃だった。当時は、研究室での活動が純粋に楽しくて、丁度初めての国際学会発表をしていた頃で、その時に読んだこの講演録には只々格好良さと「こうありたい」という憧れを感じるばかりだった。その後大学院に進学し、その中で心が折れ、今は学術研究から離れた世界で仕事をしている身として、改めて同講演録を読んで思うことをつらつらと書いてみる。今になってこれを読むのは、何と言うか、精神的な意味で一種の自傷行為であったようにも思うが。

講演録の原典は以下で公開されている。 www.cs.virginia.edu 日本語訳も様々なものが見つかる。私が初めて読んだのは、以下の今津氏による日本語訳であった。本エントリも、この今津氏訳を元に書き進める事にする。 archive.himazu.org

尚、同講演録については、私にとっては自傷行為などと言ってはいるものの、研究者を志す人ならば必ず読んでおくべきものだと思う。

情熱と傾倒

「私がまだプロレスを志してすぐの頃 私にはプロレスしかなかった」 「いや 自分にはプロレスしかないんだと思い込んでいました」 「実際は社会に参加することが怖くてプロレスに逃げ込んでいたのかもしれません」 「そうしたらある日気が付いて」 「本当に自分にはプロレスしかなくなってしまっていたんです」 --小林銅蟲 寿司 虚空編 三才ブックス

私には、この「寿司 虚空編」の登場人物「メの字」1の台詞が強く刺さる。

本講演におけるハミング博士の主張の一つに、偉大な研究を成し遂げるためには、その研究に対する情熱・傾倒が必要であるという事がある。それは生半可なものではない。無意識すらも研究の事を考え始める、即ち意識の中では常に研究の事を考え続けている程の傾倒が求められている。成果は複利であり、この傾倒の有無が最終的には極めて大きい差を作り出す。

その点で私には、上記の研究室活動が純粋に楽しかった時期においてすら、それ程までの傾倒は無かったように思う。サークル活動もせず、授業の空き時間や授業後の夕方〜夜には研究室に入り浸るという生活は、周囲の学生と比べればかなり研究に振り切ったものだったろうが、それでもハミング博士の言う段階には至っておるまい。一人暮らしのアパートに帰ればゲームなどして過ごしたりもしていて、それを変える訳でもないのに、上述のようにハミング博士の講演に憧憬を抱くなど、今思えば自己矛盾も良いところである。無論、ハミング博士の主張は研究以外に何もない人間になれというものではない。しかしそれでも、今から思い起こすに、私の傾倒は不十分だったのだと思う。

博士課程在学中にメンタルが挫けていた頃、ある時フランクに指導教官と話せるタイミングがあり、ふと「学部生の頃の私は何故あんなに元気に取り組めていて、論文を書く事まで出来ていたのでしょう。」と、半分以上が弱音の問いかけをした2事がある。指導教官からの回答は極めて単純明快で、学部生の頃は自分3がかなりサポートしていたから、であった。とても腹落ちする回答4だった。あの程度の傾倒具合で成果を出せていたのは、そのような下駄を履かせていただいていたからである。逆に言えば、その頃の私は、研究活動が面白いなどと宣いながら、真の意味でそれに傾倒していた訳ではなかった。本節冒頭に引用した「メの字」と同様な存在であった。

勇気

加えて思うに、当時の私の研究に対するあたり方、その動機もまた不純であった。当初は純粋に研究ネタが興味深かった5。そしてそのうちに、自分が成した事が認められる事への嬉しさが動機に加わった。それは具体的には、査読付会議への採択や論文の採録である。無論、採択・採録される事単体で研究の価値が証される訳ではないが、少なくともそれらは形を残すという点で分かりやすくはある。しかしこれを逆に捉えれば、それら分かりやすく形のある成果を出せなくなった時に、上述したように容易にメンタルが挫けうるという事でもある。

上掲の講演において、ハミング博士は研究者の勇気について触れている。重要な問題を解決出来ると信じて考え抜ける勇気であり、研究者に必要なものであると述べている。その勇気は必ずしも最初から持っているものとは限らず、一度の成功から得られる自信が、その後の研究活動における勇気の源泉たる事もある。氏は講演でその実例を二人紹介している。

当時の私の自信の如何に脆かったことか。上述の研究活動の動機に紐付いて私の研究活動における自信の源泉であったもの、即ち認められること、平たく言えば対外発表の採択・採録は、「自信」を「自ずから信じる」と読むなら、他者の評価に依存しているという点においてそもそも自信ではなかった。その脆弱な基盤の上に、ハミング博士が講演で述べるところの勇気は持ちえなかった。それに気付いたら、まさに上掲「メの字」が言うところの、それしかなくなってしまっていた、という恐怖感がやってきた。

その視点から振り返ってみれば、指導教官の佇まいには、研究上の課題について必ず解決できるという自信、もしくは必ず解決するという執着に近しい何かがあったように思う。それらは勇気を必要とするもので、私とは違ってそれをお持ちだった。この「私とは違って」というのも言い訳である。指導教官はその類の弱音には嫌悪感を持たれていて、そんな事を考える余地は存在せずただがむしゃらに取り組むしかない、というような事を言われた。それは全くその通りなのだが、それが出来ないという話で、私は挫けた。指導教官からすれば、自分が達成せんと無限の勇気で取り組んでいる研究室活動においてそのような腑抜けが足を引っ張っていた訳だから、私への当たりがキツくなるのも宜なるかな

普遍性がある

ハミング博士の同講演では上記の他にも様々な事柄について触れているが、研究者くずれの私の身に特に強く刺さる凶器は上述の二点である。ここまで書いてみて、この書く行為もまた、やはり自傷行為だったように思う。正直に言って、改めてめげている。

一方で、上述の二点にしてもそれ以外の内容にしても、ハミング博士の主張はまさにその通りだと感じることには今も変わりはない。学部生の時に感じた、本講演が持つ燦然たる格好良さは色褪せていない6。そしてこの内容は、研究活動に限らず、課題解決に創造性を要する様々な仕事に共通に成立する普遍的な原則であるようにも感じる。学術研究のような先進性はないにせよ、今でも多少はその傾向がある仕事をしている身として、時折思い起こしたいものである。

余談 ー それでも逃げる選択肢

ただ、このハミング博士の講演の内容に忠実であろうとすると、物事から逃げられなくなるという問題がある。学術研究の世界を去った、というよりそこから逃げ出した身が言うと自己正当化にしか聞こえないが、逃げずに留まり続けて挫けて病むくらいだったら、早々に逃げ出した方が良い場合もある。病んでいるうちは何の成果もない。少なくとも私は、もっと早いうちから逃げる事を選択肢に入れておくべきだったとは思っている。

逃げているばかりでは大きな成果を成し遂げる事は出来ない。これはハミング博士の講演内容からしても明らかである。大学院時代に指導教官から散々言われた事でもある。しかしその一方で、逃げずに踏みとどまった結果として病んでしまっても同様である。その匙加減がとても難しい。


  1. 作中で、リングネーム「綿花製品・アストラル・気持ち・御覧下さい・仮面」を略してそう呼ばれている。
  2. 「した」というより、「してしまった」とも言えよう。
  3. つまり指導教官。
  4. 同時に、更にメンタルを折ってくるものでもあった。勿論、指導教官に私のメンタルを折る意図は無かっただろうけれども。
  5. 上述の通り、今から思えば補助輪付きだった訳だが。
  6. 眩しすぎて直視できなくなった、とも言える。

電車平仮名カード

電車好きの自閉傾向長男に平仮名を覚えさせようと、随分以前に作ったものの紹介。

お手製電車平仮名カード、山手線の部。子供らには「ひらがなカード」と呼ばれている。

自閉傾向長男の療育の中で、PowerPointのスライドにひらがなを大きく表示して見せて、声と合わせてその読みを教えたり、三文字程度の単語を読むか読ませるかしながらその対象の写真を切り替えて見せたりする事で、ひらがなを読む能力を獲得させんとするものがあった。継次的刺激ペアリング手続き、と呼ばれる手法らしい。ただ、長男の反応は正直な所いまいちであった。これに対して、長男の好きな主題で似たようなものを作ったら好んで取り組んでくれるのではないかと思い立った。

長男が明確に好きな主題と言ったら電車である。それも新幹線ではなく、在来線、しかも普通列車用車両を好む。関東圏のJR沿線に住んでいることからJRの在来線車両を見る機会がよくある他、本を見せて教えた1結果もあり、見た目に区別しやすいJR東日本普通列車用車両については概ね路線名を言える。これを題材にしない手はない。

作成過程

カードは以下のように作成。

  1. 扱う路線を選定。長男がよく知っている路線の他、JR東日本管内の路線をいくつか選ぶ。今回は分かりやすさのため、濁点・半濁点・捨仮名を含まない路線名に限定。また、見た目で区別出来るように、その路線に固有のデザインの車両を持つ路線に限定。
  2. 当該路線を走る普通列車用車両の写真を選定。Wikimedia Commonsから調達2する。
  3. 右半分に同一サイズにトリミングした電車の写真、左半分に平仮名一文字のPowerPointスライドを作る。山手線であれば、同じ写真で「や」「ま」「の」「て」「せ」「ん」の六枚を作成。フォントは将来の書字への発展を期して教科書体。
  4. A4用紙に印刷してラミネータにかける。パンチで穴を開け、路線毎にリングで束ねて出来上がり。

作成したスライドをPDF出力したもの3は以下である。利用している写真素材のクレジットもPDF中に記載している。

まず試しに作ってみた、ということもあり、全ての平仮名を網羅している訳ではない。「を」は流石にどうしようもないとしても、濁点・半濁点・捨仮名を除外する縛りが案外とキツい。以下ページを参考に路線をピックアップした。 www.chikipage.net 上掲スライドに含まれているものでは、例えば青梅線4などはかなり厳しい。中央線を知っている長男は、最初見た時に当然「ちゅうおうせん」5と言ってきた。「先頭にこの黄緑の丸6が付いているのは青梅線」と言って丸め込んだが、鉄道に詳しい方に聞かれたら怒られるに違いない。他にも、羽越線米坂線辺りは全く自信がない。自信はないが、その辺も入れないと平仮名の幅が増えない。

その他、作って利用してはいるものの、紛らわしさがあるので上掲のPDFからは除外している路線もいくつかある。例えば大船渡線7である。キハ100系の写真を入れているのだが、キハ100系、同じ塗装であちこちのローカル線を走っているせいで、それら他路線を選定できなくなってしまった。 ja.wikipedia.org

実際に使ってみて

カードの見た目の長男からの第一印象はとても良かった。長男向けに作ったものだが、次男にも気に入られた。好きな電車の写真を大きく載せているのがやはり良いらしい。今でも時々、二人とも「ひらがなカードやる」と声を掛けてきてくれる。

まず最初に行ったのは、私の方が一枚ずつカードをめくりながら、対応する平仮名を一文字ずつはっきり読み上げる事である。冒頭掲載の山手線の部であれば、まず最初に「や」と言い、素早くめくって「ま」、まためくって「の」、、、と言った具合である。この時、少し大袈裟なくらいはっきりくっきり、大きめの声で読み上げる事が重要だと思う。その話は以前のエントリにも書いた。もちろん、子供らが写真だけでなく隣の文字にも目線を向けているかは意識しないといけない。

次の段階は、この一文字ずつの読み上げを私と子供らで一緒に行う事である。題材が子供らの大好きなものだからか、この段階にはすんなりと進む事ができた。さらにそこから進んで、私と子供らで交互に一文字ずつ読んだり、さらには私が一切読まなくても、促す事で一文字ずつ声を上げる事が出来るようになった。

ただ、この段階に来て長男と次男で差が出てきた。現状の様子から述べると、丁度満三歳になったところの次男は、この電車平仮名カードに含まれていないものも含め、概ね全ての平仮名が読めるようになっている。電車平仮名カードをやっているうちに、平仮名を読む事自体にも興味が出てきたようで、下掲の平仮名と電車の本を妻や父8に読んでもらって概ね覚えてしまったようである。たまに「き」と「さ」を間違えたりもする9が、その間違いが出るという事はつまり、場面で音を覚えているのではなく、ちゃんと文字を読んでいるという事である。

一方で長男は、まだその段階には到達していない。最近、カードをめくる時に文字ではなく写真の方に視線が向いていて、文字を読んでいるというよりも知っている電車の名前を読み上げている、即ち先の表現で言うところの「場面で音を覚えている」節がある。文字を読むことにはまだ興味が薄いのだろう。ただそれでも、頻出する文字10や、特に好きな路線の文字であれば、文字だけでも読めるものもあるので、一定程度の効果は出ているように思う。

今は、先の使い方に加えて更に、カードの左下に小さく書いておいた単語としての路線名を読ませる、ということも時々試している。次男については、文字を読むことから更に進んで、文字の連なりを順に読むことで語や文になる事を理解させるのが目的である。長男については、上述の通りカードをめくりながら路線名を一音ずつ読むという場面を覚えてしまっている節が見受けられるので、今一度文字を意識させるため、やり方を変えてみる試みである。


  1. 親である私自身も、鉄分が濃いとはとても主張出来ないものの、鉄道が好きなので。
  2. 有り体に言えば、Wikipediaの当該路線記事から良さそうな写真を見つけてきた。記事更新により今は当該記事から参照されていないものもあるが。
  3. 公開用の注意書きを付けてある。
  4. 「め」が欲しかった。
  5. 尚、中央線は捨仮名「ゅ」を含むので除外されている。
  6. 「東京アドベンチャーライン」のヘッドマーク
  7. 「ふ」と「な」が欲しかった。
  8. 私の父、即ち子供らにとっては祖父。
  9. 間違いに気付いて自分で訂正することもある。
  10. 例えば「せ」と「ん」

負に正を乗じると負が増す

大学生の頃、「教科書や授業などによる旧来型の学習は人の知識を加算で増やし、ウェブは人の知識を乗算で拡張する」という事を言っている人がいた。ここでいう「ウェブ」は、検索エンジンを使って何かについて調べる、という事を主に指している。この発言が誰のものだったのかは思い出せない。その人も、別の誰かからの聞きかじりだったのかもしれない。

これは盲目的にウェブを礼賛する話ではない。加算に対して乗算というと、そちらの方がより効率的に知識を増大させるものだと聞こえるかもしれない。確かにその側面もあるが、その一方で乗算とは、0に何を乗じたところで0のままだし、負に正を乗じると余計に負が増すものである。その特徴まで踏まえての、冒頭の発言なのである。今時の流行りも含めれば、生成AIに質問して答えてもらう、という事についても同様の議論が成り立つだろうと思う。

「何が分からないのかが分からない」

何か分からない事ついて調べるにあたって、ウェブ、ひいては検索エンジンを使うというのは今日日ごく当たり前に行われている事である。最近であれば生成AIもまた同様である。これらは、何が分からないか特定出来ていて、さらにそれを言語化することも出来ていれば、極めて強力なツールである。分からない事が解消されれば、出来ることが増える。出来ることが増えれば、その中でまた分からない事が出てくる。それが解消されれば、、、と繰り返していく事で、出来ることを主体的にどんどん増やしていける。まさに複利のよう、乗算的アプローチである。

ただしこれは、本節冒頭の条件「何が分からないか特定出来ていて、さらにそれを言語化することも出来ていれば」の話である。実際にはこれが結構難しい。プログラミング入門の非常勤講師時代の肌感覚を思い起こせば、何が分からないかを分かって質問してくる学生は相当に優秀である。そのような学生には少し指針を示してやれば、自分で講義資料を見返したり、それこそウェブ検索したりして、自力で疑問を解消できる。実際には、何かが分からなくてプログラミングの手が止まってしまった学生の大多数は、何かが分からないことは分かっているものの、それが何なのかは分かっていない。講師であるところの私、すなわち教えていることの全景が見えている側から彼らの話を聞いたり様子を見たりすると、どこが分からなくなっているポイントなのかは一目瞭然に分かるのだが、当事者からするとそれが見えていないのは普通1である。

だからこそ、学習しようとしている対象の全景が見えてくるまでは、その全景が見えている立場が学習者に寄り添っていることが必要であると思う。典型的には教員がそれにあたるだろうが、別に必ずしも人である必要はない。人である事の利点は、上記のように何かが分からなくなった時に雑な質問が出来る事である。それを脇に置いておくなら、全景が見えている立場からまとめられた教科書・入門書でも良い。その点では、ウェブ上に掲載されている教科書的・入門書的コンテンツでも良いと思う。それは、同じウェブという媒体上であっても、検索エンジンで何かを単発で調べる、という事とは違う。ただ、教科書・入門書にも良し悪しがあるので、それを見極める審美眼は必要である。で、そんな審美眼が入門段階で備わっているわけもなく、と思えば、まずは先達に頼るという意味でも「人」の利点は出てくる。

情報の審美眼

そして情報の審美眼という点では、教科書・入門書にも良し悪しがある位なのだから、ウェブ上の様々な情報についても玉石混交であることは言わずもがなである。このことには以前のエントリでも触れた。

このエントリを書くにあたって、試しに「HTML 文字を動かす」というキーワードでGoogle検索してみた。今はあまり見かけなくなったが、一昔前のウェブページではよく見られた、電光掲示板風に文字を流して表示するアレである。その時得られた検索結果の一つ目は、marquee要素の解説ページであった。最近のウェブ周りの事を知っている人には当然の事であろうが、現行最新のHTML仕様では、このmarquee要素は非推奨である。同様の見た目を実現するには、今の考え方ではCSSで諸々指定するのが筋である。無論、検索結果を辿っていけば、その方法を解説するページも出てくる。また、最近のGoogleには検索キーワードに対して生成AIによる解答を表示する機能もあるが、そちらはmarquee要素を使う方法とCSSで実現する方法を併記2してきた。

ウェブ上の様々な情報は、それが作られたのがいつであるかを問わず、ある意味それぞれ平等に存在している。marquee要素は、かつては極々一般的に用いられるものであった訳だが、その時代に作られた情報と、現行の標準に基づく情報との間に区別はない。何なら、このように「かつては正しかった情報」と「最新の情報」の区別以前に、「正しい情報」と「誤った情報」の区別すらない。それらは等しくウェブ上に存在することができ、さらに、検索エンジンでどのように表示されるかという点においても、正しいか否かなどという事は評価軸にはならない。生成AIもまた、既存の膨大な情報源の統計上に回答を生成しているに過ぎず、その回答及びそもそもの情報源が正しいか否かなど考えていない。

そのように数多の情報源が存在しうる場においては、低品質な情報はいずれより多数の高品質な情報により淘汰される、という考え方はあると思う。この集合知的アプローチの実装例の最たるものはWikipediaであり、統計に依っているという点において生成AIにも通じる。そしてこれがある意味限界でもあり、個別の情報の信頼性は担保しようがないという事である。無論、ウェブ以外の情報媒体であっても同様の事は当てはまるが、万人が情報を発信できかつ情報の鮮度や正しさに対する責任を問う者もいないウェブという場においては、殊に顕著である。

負の増幅

そのような中で、特定の物事について前提知識を持たない人、即ち審美眼を欠く人がウェブでの情報収集を介して、逆によりおかしな事を信じる方向に振れてしまうという事が起こりうる。これが即ち、冒頭でも述べた「負の前提知識」が乗じられてより増幅されるという状況である。

先の「HTML 文字を動かす」の検索の他に、一般に疑似科学エセ科学の産物とされている製品や概念いくつか3について、その名前をGoogleで検索してみた。ある意味当たり前であるが、それらを販売・提唱するウェブページが検索結果上位に表示されるし、AI機能はそれらの効果として主張されている事項をまとめて表示してくる。上述の通り、それらの情報源が科学的方法論に則っているか否かなどという事は検索エンジンや生成AIにとって範疇外のことであり、そこには検索エンジン最適化の妙技が働くのみである。しかし、科学的手法の心得や関連分野の基礎知識なしにそのような情報に直面した時に、それらを無批判に信じる方向に人が流れてしまうという場面は容易に想像しうる。

もう少し当たり障りのない話題としてmarquee要素の話に戻ろう。そもそも「HTML 文字を動かす」というキーワードによる検索それ自体が、今時のウェブページの作りの考え方からして不適切なのである。今日の整理においては、HTMLは文書の意味的構造を記述するものであって、文字を動かすなどといった見た目の制御を行うためのものではない。見た目の制御はCSSを使って行うのである。その原則を分かっていれば「HTML 文字を動かす」などという検索キーワードはあり得ず、代わりに「CSS 文字を動かす」などとなろう。そのように検索すれば、marquee要素の解説など出てこない。これもまた、十分な前提知識を持っていれば良い情報に行き着く事が出来るが、そうでない=「HTML 文字を動かす」などと検索してしまうようだと、その負の前提知識を増幅してしまう=marquee要素に辿り着いてしまう4、という具体例である。

確たる知識基盤を持つべし

もちろん、十分な前提知識を作るというのは大変な事である。それには冒頭で言うところの加算的学習アプローチが必要であり、その教科書的に勉強するというアプローチには一定の負荷がかかる。ただ、そこを安きに流れてしまう事のデメリットは述べた通りである。即ち、何が分からないでいるのか分からずに物事を進めてしまい、その結果として得られた歪5な知識が負の方向に増幅されてより歪んでいく。一方で、冒頭でも述べたが物事について調べるにあたって、前提として確固たる知識基盤を持っている上で使いこなされる検索エンジンや生成AIは極めて強力なツールである。その正の相乗効果は、最初の加算の負荷を投じて尚、それを十分に巻き返しうるものだと信じる。

それを見越して、最初のうちはある程度の負荷がかかる学習は受忍しなければならない。


  1. だからこそ、何か分からないことがあったら、それを上手く説明できなくても良いから気軽に質問してね、ということは常に言っていた。教員に気軽に質問できる空気感は大事だと思う。仮にその質問が、教員の助けなしに学生自身で何とか出来そうなものであったとしても、その指針を示して学生自身にやらせるよう指示すれば良いのだし。
  2. marquee要素の利用は推奨されないという事も示していたので、まあ及第点か。しかし今日日、marquee要素を紹介する事自体、時代錯誤ではあるが。
  3. 変なリスクを背負いたくないので具体名の紹介は避ける。この逃避もまた迎合であり望ましくないが。。。
  4. CSSアニメーションで文字を動かすより、marquee要素を使ってしまう方が短期的には簡単であるということも、その傾向に拍車をかける。
  5. 「歪」(いびつ)という文字を改めて見てみると「不正」で出来ている。本当に良く出来ていると思う。