kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

何を強化しているのか・続 ー 刺激制御/好子の予告

攻めた副題を持つ以下の応用行動分析=ABAの本、我が家における通称「飼いネコ本」を読んで考えている事、の続き。

本書に関する前のエントリは以下。 blog.kolmas.tech

手を洗わせたい

最近の長男には、本来は自分で出来る事を自分からやらないという場面が目立つように思う。自分で出来る事が増えるのはまず第一に喜ばしい事であるが、そうしたら次には、その出来る事を、必要な場面で自分から出来るようにならなければならない。

例えば手洗いがそうである。単に出来るか出来ないかだけで言えば、手を洗ってタオルで拭くまで、ほとんど補助なしでも概ね出来る。完全に任せるとかなり雑なので、実際には脇にいて手伝っているが。ただ、手を洗うべき場面で自分から手を洗いに行く、という点についてはまだ不十分である。手を洗わねばならないという事を分かっていても、である。例えば外出から帰宅して靴を脱いだ後に「靴を脱いだら次は何する?」と問い掛ければ、回答を得るまで根気が必要な時もあるものの、ちゃんと「手を洗う」と答えられる。ただ、そう答えさせた上であったとしても、素直には手を洗いに行かない事が多々ある。「ママと手を洗う」と言って妻を探しに行き、その後実際に妻の手伝いで手を洗っていればまだ良い方である。妻を探しに行った過程で部屋の中のものに気を取られて遊び出したり、そもそも手を洗うという事に意識が全く向かずにその辺で遊び出したりする。最終的には私か妻かが、手を洗いに行くぞと言いながら洗面台に引き連れて行って、手を洗わせる。

しかもこれが、どこでもそんな様子なのかといえば、そうでもない。長男の療育においてはいくつかの療育施設に通っているが、そのうち一箇所、二週に一度の頻度で通っているところがある。家から電車+徒歩で片道二時間以上かかる場所にあり、三男が生まれたこともあって妻が同伴出来ないので、休暇を取って私と父1とで連れて行っている。到着したら当然ここでも靴を脱ぐわけだが、その後の「靴を脱いだら次は何する?」の問いにはすぐ「手を洗う」と答え、その後実際に洗面所に向かい、やはり手伝い付きではあるが素直に手を洗う。これは家での振る舞いと全く異なる。

そこの療育の先生にもこの話題は話していて、曰く、療育の場面では児の気を引くものを意図して少なくして気が散りにくいようにしていて、その影響もあるのではないかとの事だった。それは同意できる説明である。家には長男の気を引くものが多すぎる。かといって家は療育施設ではなく生活の場なので、それらを減らすことは易々とは出来ないが。

服を自分で脱がせたい

似たような話で、風呂に入れる時に服を脱がせる、という話題もある。長男において服の着脱それ自体は、少し手伝いが必要だがある程度は自力で出来る、程度の難しさである。自力で出来ないポイント、典型的には上着の袖から腕を抜く段階等においては「手伝って」と言わせる練習を妻がしている。

これまた、概ね出来るにも関わらず長男自身からはなかなかやらない行動の例である。風呂場の中には長男の気を引くものが様々にあり、服も脱がずに風呂場に入って行ったりする。脱衣所に連れ出して服を脱ぐように言うと、すぐに取り組み始める場合もあるが、全然取り組み始めないこともある。その場で寝転んだり、また風呂場の中に入って行ったりする。尚、一度取り組み始めれば、ズボンとパンツはすんなり脱ぐ。ただし上着は自分では脱ごうとしない。上着を脱ぐ事がまだ難しめの行動である、という事があるのだろう。こちらで片手の袖を掴んでおいてやれば後はすぐに脱げるのだが、上述の通り「手伝って」と言う事はまだ練習中でしっかり身に付いているとはいえないし、自分自身で袖を掴んでその袖から腕を抜く事も練習中2である。だから、上着を脱ぐ段階で止まってしまうのはまだ分かる。とはいえ、ズボンとパンツは簡単に脱げるようになっているのだから、それは自分から脱いでくれ、という気持ちにはなる。

これもまた、服を脱ぐべき全てのシチュエーションで同様という訳ではない。典型的にはトイレである。長男のトイレトレーニング自体は最近になって急激に進展し、昼間はオムツなし・布パンツで過ごせている。楽しい事があるとトイレに行きたそうにしていながら我慢し続けている節があり、こちらからトイレを提案してやらないとならないが、自分からトイレに行く事を主張する場面も出てきた。いずれにせよ親を引き連れて、もしくは親に引き連れられてトイレに行く訳だが、そうすると、何を言わなくても自らズボンとパンツを脱ぎ3、便座に座るのである。自律的に脱げてるじゃないの、と思う。

刺激制御・弁別刺激

長男は「手を洗う」という行動自体は習得している。「服を脱ぐ」事も、一部手助けは要るが、概ね出来る。それらの行動をすべきタイミングであったり、するように言われたときに、しない、という事が問題である。これらの課題は、件の本で説明されている内容を鑑みると、刺激制御が上手く成立していないと説明できるだろうか。

件の本によれば、何らかの行動のきっかけになる刺激を「弁別刺激」と呼び、その上で以下のような状態にある事をその行動が「刺激制御」されていると呼ぶとのことである。

  • 弁別刺激が与えられたときに、対応する行動が起こる。
  • その弁別刺激が与えられたときに、それとは別の行動が起こらない。
  • その弁別刺激が与えられていないときに、その行動が起こらない。
  • その弁別刺激以外の刺激が与えられたときに、その行動が起こらない。

帰宅時の手洗いの場面で言えば、「手を洗う」という行動を引き起こす弁別刺激が成立していない、という事になるか。「靴を脱いだ」という事が、「手を洗う」行動の弁別刺激になっているのが望ましいのだろうか。少なくとも「手を洗いな、と言われた」刺激には反応してほしくはある。一方で、そうする必要もないのにやたらと手を洗うのも問題4である。風呂前に服を脱ぐことについては、そのための弁別刺激は何であるのが良いか。「脱衣所に来た」?「風呂入るよ、と言われた」?トイレの場面に関しては、「トイレに来た」という刺激が「ズボンとパンツを脱ぐ」行動の弁別刺激として成立しているということだろうか。もちろん、必要のない場面で服を脱ぎ出すようでは困る5のは当たり前である。

新たな弁別刺激を成立させることも含め、対象がこれまでする事が無かった行動を新たに身につけさせる方法論として、件の本では「シェイピング」という手法を説明している。これについてはまた別途書きたい。

好子の予告

ここにきて気になるのは、何かを子供にさせる時に「〜〜したら〇〇」といった形で好子を予告する事である。〇〇の部分には、例えば長男の場合には電車動画が入ったりする。

これを刺激制御の観点のみから見ると、行動を発生させるための刺激に余計なものが混ざってしまっているようにも思える。「靴を脱いだ」もしくは「手を洗いな、と言われた」ら「手を洗う」ようにしていきたいのであって、「手を洗ったら動画だよ、と言われた」事を弁別刺激としたい訳ではない。弁別刺激だけであれば、件の本でも説明されているように段々と小さくしていけば=フェイディングしていけば良いとも思うが、最近、「手を洗いな、と言われた」ら「動画を見る事をゴネる」ようになってきた。こうなると最早別の何かを強化してしまっている。つまり、ゴネれば動画が見れる→ゴネる事の強化である。

ゴネる事を強化させないためには、それに対して好子を与える事=ここでは動画を見せる事、を避ければ良い。ただし、これは徹底しないと逆効果である。ゴネた時に最終的に好子が与えられるたり与えられなかったりすると、それはゴネる事に対する変動強化であり、それをより強く強化する事になる。とはいえ生活の中で、ゴネてどうにもならない長男の行動を進ませるために動画を見せたくなってしまうのはある程度避けられない所もある。となれば、ゴネるという行動がそもそも出にくくなるように場面を設計していくしかない。

その点において、好子の予告は扱いが難しいように思う。好子を予告すると、確かにその次の行動に移らせやすいが、その状態から抜け出しにくいように感じる。実際、上述のように長男がゴネる。その上で、予告してしまっている以上は行動後に好子を与えないのは裏切りであるから、行動に対して毎回好子が与えられる連続強化になる。そこから部分強化に移行していく事が難しい6。そのために、本来強化したい筈の、必要な場面で必要な行動を起こす事に対する強化が進みづらくなるように思う。

ただ、起きた行動を強化するABA的手法においては、まずは対象の行動を起こさせなければしょうがない。その、まず行動を起こさせる、という事について好子の予告が効果的なのも事実である。もうこうなると、匙加減の問題という、まさに最も扱いが難しい領域に至る。

段取り理解と刺激制御

ところで、ここで刺激制御の話題に戻ると、そもそも刺激制御でこのような場面を全て説明できるのかについて、ここまで書いてきて疑問に思う節もある。

我々は外から帰ってきたら手を洗うし、風呂の前には服を脱ぐ。そうしなければならないと分かっているからである。ただ、帰ってきて靴を脱いだらすぐに手を洗うか、というと、そうである時もあるし、そうでない時もある。例えば車に買い出しの荷物を積んでいる時には、まず先に冷蔵庫前と車を何往復かして荷物を全部家に取り込んでしまう。この一定程度可変な振る舞いは、刺激制御で説明出来ないように思える。

長男を通わせている療育施設の一つ7での取り組みの中に、段取りを付けて活動する、というものがある。具体的には、五種類程度の取り組みを順に行うというもので、それぞれの取り組みに必要なものが①〜⑤の表示のあるカゴに入っていて、順に取っていくのである。最後に取り組む⑤の箱には、長男の好きな玩具が入っていて、一連の取り組みのご褒美的な扱いになっている。これも、刺激制御という感じはしない形式である。箱の中身と順序は毎回違っていて、固定的な刺激により行動を誘発するという考え方は当てはまらない。この取り組みが目指すのは、与えられた段取りを見通し付けて遂行できるようになる事であって、固定的な玩具を固定的な順序で取って遊ぶ事を強化しても仕方がない。

刺激制御と、この段取り理解の話題を比べると、弁別刺激による行動の誘発は多分に機械的で、その一方で段取りには行動に対する本質的な理解が必要であるように感じられる。我々は、家に帰ってきたら手を洗わなければならないという段取りの必要性を理解している。それ故、時にはその必要性を満たす範囲で行動の順序を入れ替えたりも出来る。これに対して、弁別刺激と対応する行動の意味的繋がりを理解させなくても、刺激制御自体は成立させられる。これは簡単である一方で、固定的で応用は効かないものだろう。

療育の先生に、手を洗う等の生活上必要な動作は、固定的なルーティンにしてしまうのも良いというアドバイスを頂いた。上述の考え方に当てはめれば、これは段取り理解が必要な課題を、刺激制御でなんとかなる領域に近づけて簡易化するもの、と言えるかもしれない。

段取り理解と好子の予告

この段取り理解の話題は、好子の予告の件とも絡めて考えられる。即ち、上述の⑤の箱に入っている長男の好きな玩具は、長男にとって好子であり、その存在は段取りの最後にあるものとして予告されている。

この⑤の箱の玩具が何を強化する事を狙っているのかといえば、勿論、段取りに従ってそれまでの取り組みを遂行する事、ではある。加えて、長時間の取り組みに集中している事が難しい長男のモチベーションを続かせる効果もあると思う。とはいえ、やはり長男は取り組みの途中で集中が切れ、その⑤の玩具に手を出そうとする。その時先生は、「これは⑤番である」事と「今は〜番である」という事を長男に伝え、⑤の玩具には手を出させない。ゴネてもどうにもならない、という事が徹底されている。

この様子も見て思うに、好子の予告がゴネを誘発するのはどうしようもないらしい。となれば、療育施設ほど徹底した環境調整が出来ない家庭環境においては、好子の予告を使うのは、余程難しい事に取り組ませる場面に限定した方が良さそうに思える。そもそも行動を強化する力は、予期せず与えられる好子の方が強いのだし。その事も踏まえて、必ずやらせなければならない日常動作的なものは、まずは固定的ルーティンに落とす=刺激制御でなんとかなる領域に近づける事で、簡単な課題にしてしまった方が良いのだろう。

何を強化して(しまって)いるのか

諸々考えて結局は、何を強化しているのか、あるいは何を強化してしまっているのかを意識し続ける必要性、という以前のエントリと同じ結びに至る。我々が強化したいのはゴネる事ではなく、必要な時に適切な行動を起こせる事である。それを狙って強化する枠組みが必要で、その枠組みを設計する妙技を身につけねばならぬ。無論、設計したら実践しなければならない事は言うまでもない。

実践の過半が妻任せになってしまっている事が、私の罪であり、妻に申し訳ない所であるよなと、改めて思う。側で小言を言っているだけ、の構図でしかない。。。

余談 ー 弁別刺激とプロンプト

件の本の刺激制御周りの記述は、別に読んでいて分かりにくいというわけではない8のだが、少し解釈に自信が無い感もある。最も大きなモヤモヤ感は、弁別刺激とプロンプトに類似性が感じられる事である。フェイディングという言葉・概念を適用する事も同じだし。これらは同じ概念なのか、違う概念なのか?


  1. 長男からしたら祖父。子供がいる生活全般に関して、持つべきものは退職した両親、とは常に思う。そうでなければ私は今のような働き方はとても出来ない。
  2. 練習させているが、まだ難しそうではある。袖を掴んだ手が、腕を抜こうとするときにすぐ離れてしまうのが難点。指先の力が足りないのか、力を入れにくい姿勢なのか、はたまた集中力の持続の問題なのか。
  3. よくよく考えてみれば、下半身の服を脱ぐ機会は上半身の服を脱ぐ機会よりも余程多い、つまり練習の機会が多い、ということもある。
  4. この季節にそんな事をしていたら手が荒れる。
  5. 幸いにして長男にその様子はない。
  6. そも、ランダムであるという事の本質は予測できないという事である以上、予告された好子は部分強化に繋がりえないのでは、とも思う。
  7. 上述の、二週間に一度の頻度で行っている所。
  8. むしろ、読み物としてかなり読みやすい部類の本だとすら思う。

網が好き

網が好きである。「あみ」ではなく「もう」、つまり広義のネットワークの事である。この嗜好がどうして成立したのかは分からないし、今もなぜ好きなのかと問われたら明確に答えられないのだが。

鉄道路線図を無限に見ていられる

関東圏のJR東日本沿線に住まう私にとって、通学・通勤時の電車内には昔から東京近郊路線図があった。以下リンク先にて「東京近郊路線図(車内掲出版)」として公開されている。 www.jreast.co.jp 通学中の暇な電車の中で、これをよく眺めていた。おかげで、大体どの辺でどの路線がどう繋がっているのか、何となくは捉えられている1。これは見ていて楽しい図である。

最近、子連れで東急に乗る機会が時々ある。こちらの車内にも、東急全線の路線図が掲示されていて、余裕がある時には眺めている。東急の全線路線図も、走っている地域が限定的な割に複数路線が入り乱れていて、見ていて楽しい。

大学時代は小田急ユーザであった。上述の東京近郊JRや東急と比べると、小田急の全線路線図はかなりシンプルである。その点で見応えは若干劣るものの、これも電車内で見かける度に眺めていた。

その点では、新幹線の路線図も、現状ではかなり直線的で見応えに欠ける。基本計画路線が全部通るような事があれば2、とても見応えのある路線図になりそうには思える。 ja.wikipedia.org どうやら私は、直線的なネットワークよりも、メッシュネットワークの方がより好みであるらしい。

大分昔にこんな本も買った。古今東西の様々な鉄道路線図が収められている。これもずっと見ていられる類の本である。

高速道路網と高速道路標識を愛でる

高速道路網も好きである。高速道路上に点在するインターチェンジやサービスエリア・パーキングエリア、さらに複数の高速道路を接続するジャンクションからなるネットワークを書き表した路線図を、これまたずっと見ていられる。首都高等の都市高速の路線図も良いし、広域輸送網を形作る全国の高速道路網の路線図もまた良い。

高速道路上、インターチェンジやジャンクションに設置されている緑色の標識も好きなものである。これらは、それぞれの場所の視点から局所的に高速道路網を説明していると言える。暇つぶしの一つに、Wikipediaの高速道路ジャンクションの記事を巡るというものがある。記事に掲載されている、ジャンクションの分岐点に設置されている標識の写真を愛でるのだ。

高速道路が子供の頃から身近なものだったということも影響しているかもしれない。父方の実家が高速道路利用で自宅から二時間程度かかる所にあり、年に数度そこまで墓参りに行っていた。一方、母方の実家はその半分程度の距離の所にあり、高速道路でも一般道でも行ける場所だった。運転する父親に、高速道路が良いとせがんでいた記憶がある3

ところでジャンクションといえば、例えば以下のような記事で見られるように、その構造体の格好良さを愛でるという界隈がある。 dailyportalz.jp 私も、ジャンクションという土木構造物に対して格好良いという感覚はあるので、このような記事も時々読む。ただ、その感覚は本エントリ主題の「網好き」の感覚とは違うようである。ジャンクションそれ自体も、ミクロ視点で見れば、分岐と合流を繰り返す網であると言えそうだが、それに対して「網好き」の感覚は働かない。不思議である。

その視点で先の鉄道の話題に戻ると、駅や車庫のような拠点の配線図にもあまり興味がない。これも網であるはずだが。以下のようなサイトを見ると、面白そうだな、とは思うのだが、上述のような路線図を見たとき程のときめきは感じない。これも不思議である。 www.haisenryakuzu.net

コンピュータネットワークとルーティング

一応コンピュータ関連を専門領域にする者として、網の話をするならコンピュータネットワークの話題は欠かせない。

例えば以下のようなウェブサイトなど見ていて楽しい。ここでは、インターネットを支える海底ケーブルの敷設状況を可視化している。 www.submarinecablemap.com

このようなL1=物理層の話題に関しては、この「網好き」の感覚が良く働く。特に、それこそ上掲の海底ケーブルにも当てはまる事だが、広域接続の話題が好みであるようである。ホームネットワーク等の末端ネットワークにおける大方のネットワークトポロジはスター型であり、ある意味単調で「網好き」の感覚があまり働かない4。これは上述の鉄道網の好みの違いにも通じる感覚であるようだ。

そして、L2・L3になってくると、これまた「網好き」感覚があまり働かない。物理的な意味でのネットワークの上で、どのような流れで情報を通すか、という観点は「網好き」感覚からは離れた所にあるらしい。尚、L2・L3の仕組みも、それはそれで私にとって面白いものではある。それらはレイヤが違うとはいえ不可分な話題であるので、好みの機序が分かれるのは不思議である。

その観点に気付いてみると、鉄道網や高速道路網にも同様の感覚があるように思える。即ち鉄道網でいえば、網を愛でる感覚は、その網の上を走る列車や、そこに乗る乗客のルーティングには、当てはまらない。むしろ、どのようなルーティングがなされる事になるかを想像しながら、物理的な網を愛でている。高速道路網についても同様である。

幹線網が好き?

ここまで書いてきて浮かぶもう一つの不思議な点は、どうやら私は幹線の網が好きらしいという事である。

道路網で言えば、先程来話題にしている高速道路であるとか、もしくは国道・県道などの幹線が構成する網を好む一方で、地域の生活道路のようなものにはそれほど興味がない。これも明らかに網である筈だが。網の末端という意味では上述の末端コンピュータネットワークの話題にも似ている気がするが、生活道路などというものはそれこそ複雑なメッシュネットワークであって、先の話題はそのまま当てはまらない。

ネットワークの節5の密度が高過ぎるのが、どうも好みでないらしい。その理由は恐らく二つある。

  • 単純に、その網を愛でようとした時に、頭の中で網の全体像を把握しきれない。把握しきれないものを愛でようがない。
  • 鉄道網や高速道路網等、物理的に節を多く置けない低密度な網において、その制約の中で網がどのように設計されているのかが面白い。

上述の、個々のインターチェンジやジャンクションの分岐・合流の構造や、鉄道における拠点の配線図等といった、ミクロ網に対して「網好き」感覚が働かない事も、同じ理由で説明出来そうな気もする。その粒度で考え始めたらマクロ視点での網の全体像は把握しきれなくなるし、マクロ視点でいる方が楽しいのだ。

物理的な広域インフラの設計を愛でる

ここまでの考えをまとめると、私の好きな網は、メッシュ状の広域接続を担う物理的なインフラをマクロに捉えたものである、と言えそうである。鉄道網も高速道路網も、インターネットの物理的な広域インフラも、これに当てはまる。

インフラといえば、分野を問わずインフラ屋さんには頭が上がらない。問題なく動いている間は特に感謝もされないのに、問題が起こった時にはひたすらに批判される不条理。インフラ屋さんへの感謝を忘れずにいつつ、その仕事の結晶たる網を愛でるのである。

余談 ー Mini Metroは良いぞ

Dinosaur Polo Club社が開発したゲーム「Mini Metro」は、「網好き」の心に響くとても良いゲームである。時間と共に増大する駅と乗客を捌く地下鉄路線網を作るパズルゲームである。一ゲームの時間がとても長いという類のものではないが、気付くと時間が溶けている系のゲームである。 dinopoloclub.com

同社のゲームには道路網を敷設する「Mini Moterways」もあって、こちらも楽しい。ただし、「網好き」の観点のみから見るとMini Metroの方が強く刺さる。Moterwaysの方は、出来る限り交差点を作らないのが高スコアの肝なのだ。 dinopoloclub.com


  1. 千葉方面はちょっと自信がない。
  2. そんな事は少なくとも私の生きているうちには起こりえまいが。
  3. 有料だからと渋られていた記憶もある。
  4. 「網好き」に引っかからないだけで、興味は普通にある。今の家を建てる時には、ハウスメーカと調整して家中に有線・無線両方のネットワークを張り巡らせた。
  5. 鉄道網であれば駅、高速道路網であればインターチェンジやジャンクションが、それぞれネットワークの節といえる。生活道路で言えばありとあらゆる交差点が節といえる。

寝正月(広義)

あけましておめでとうございます。

昨日の夕方に急に書類書きをする必要が生じて、徹夜で書き上げ、朝食におせちを食べて、その後は反動で夕飯時までずっと寝ていた。これが本当の寝正月か?

36歳、十二支三周目の体力の無さよ。二周目の頃は二徹くらい出来た1はずだが、衰えている。


  1. その反動で一週間ほど寝込んだりしたものの。

魂込めて書かんかい

このブログのエントリは、一応全て私が手ずから書いている。コンピュータを使っているのに「手ずから」とはどういう事か、という気もするが、昨今流行りの自動生成はしていないという意味である。誤植等が紛れている可能性は十分あり、その点はご容赦頂きたい。

尚、本エントリの前提として、特に断らない限り、これは日本語を母語とする私が日本語の文書について考えている事である。

入魂、というか魂が削れる

本エントリの表題「魂込めて書かんかい」は、前々回エントリ前回エントリでちらっと出てきた、大学・大学院時代の私の指導教官の口癖の一つである。かのエントリはあまり良い印象を与えない内容になってしまっていたが、指導教官の事は尊敬もしているし感謝もしている1。その指導教官が、論文指導において良く言っていた言葉である。曰く、真剣に書かれていない=魂の込められていない文章は見れば分かり、そしてそれは実に印象2が悪い、と。これを初めて言われた頃はともかく、論文誌の査読委員をしたり、後輩や同僚の文章添削をしたりするようになった今は、理解できる感覚である。

自らが執筆する文章に対する愛、という感覚にも近しいかもしれない。愛を持つが故に、その文章が出来得る限り最上のものになるよう心血を注ぐのである。そうして文章、例えば一編の論文を書き上げると、かなり精神が磨耗している感がある。魂が削れている、とでも言うか。その点、自ら能動的に「魂を込める」事が出来ているという実感はあまり無いのだが、上述の「削れ落ちた」分の魂は、執筆した文章にしっかりと注ぎ込まれているに違いない。その自分的には珠玉の文章について添削・赤入れを依頼し、時にこてんぱんにされて帰ってきたりした日には結構めげる所もあるが、それでも、自分の文章3をより良いものに研ぎ澄ます過程と思えば建設的に受け入れられる。

このように、自らの意図・見解等を注ぎ込んだ、ある意味自分の半身とも呼ぶべき文章を美しく仕立てていく事は、物書きを生業とする者にとっては当然の事であると思う。大学院を離れた後の私も、学術論文こそ書いてはいないものの仕事の一部は物書きであり、大学・大学院時代に身に付けたこの感覚は役に立っている。尚、本エントリ冒頭でこのブログに紛れているかもしれない誤植について言及したが、仕事での物書きに関しては、自分からそんな予防線を張るようなクオリティで出すつもりはない4。このブログはあくまで余暇活動であり、そこまでの高クオリティは狙っていない。

魂の込め方が足りない文章

そんな事を考えて物書きをしたり、もしくは人の文章を読んだりしていると、世の中に愛なく仕立てられた文章の多い事、という気持ちになる。

誤字脱字や変換ミスに始まり、「てにをは」の誤り、主述の不一致、係り受けの不整合5、慣用表現の誤り等々、適当に書いていると日本語を母語としていても紛れてしまうミスはある。とはいえこれらは、書き上げた後に精読すれば大方発見できるものであって、眼力で紙に穴が開くくらい読み込むべしと思っている。もしくは、慣れてくれば書きながら同時に潰したり、そもそも発生を抑止したりする事もできる問題だと思う。いずれにせよ、自分の半身であるところの文章について、このような極めて初歩的かつしょうもない瑕疵を残したまま表に出すなどという事は許し難い。それをやってしまった時の感情は最早、自らに対する敗北感・屈辱感と言うに相応しい何かである。6

また、よりマクロな問題としては、客観的に見た時の論理・展開の飛躍や破綻がある。これは書いている本人からは気付きにくいものである。文章は筆者が持つ知識・情報を前提として書かれる。自分の中での前提というものは当たり前すぎる存在で、筆が乗っている時には特に、書いている文章の中から抜け落ちがちである。そうすると、書いている本人にとっては整合が取れていても、読み手にとっては飛躍や破綻を感じる文章が仕上がる。その点で、想定される読み手の視点から自分の文章を読み返すという事は重要であり、先入観排除のために自分以外の誰かに読んでもらうのも良い。その過程にかかる労力を惜しむべきではない。先の表現で言うなら、文章というものは書き手の半身なのだから、書き手の中にある前提も含め、読み手が欲する書き手の全てが投影されていなければならない。

そのような事を意識し続けて魂の込められた文章を書いていると、「味」とでも言うのか、書き手毎に固有の雰囲気が段々と出てくるように感じる。日本語の癖と言っても良いかもしれないが、それだけでも無いように思う。多分に定性的というか、感覚的な概念なので、明確に説明するのは難しいのだが、確かに何かがあると感じる。7

そもそも魂がない文章

その視点に立つと、「味」が入り混じって滅茶苦茶だったり、そもそも「味」を感じない文章も見かける。様々な元文章のコピペ・切り貼りによるものや、生成AIによる生成物などである。もっとも、生成AIのものに関しては、「生成AI味」を感じる事もあるが。以前のエントリで述べた「謎眼力」に近しい感覚かもしれない。

切り貼りして作られた文章は、雑なものであれば、一度見れば切り貼りである事が想像できる。「味」に統一感が無いのである。例えば、句読点の打ち方に「、。」式と「,.」式8が混ざっている文章を見た事がある。ここまで露骨だとすぐに、切り貼りして作ったんだなという疑いの上で当該文書を読むようになる。実際、その疑いは当たっている9事が多い。そこまで露骨でないにしても、複数の書き手の癖が妙に区切れよく混ざっている文章は時々見かけ、その手の文章は既存文章の切り貼りである事が多い。そのような文章に、書き手の半身である所の魂など宿っている筈がない。尚、上述の自分以外の誰かによる推敲の結果として文章の癖が混ざるという主張もあるかもしれないが、その誰かのコメントを無思考に反映するのではなく、自分の理解に落とし込んで受け入れれば、そうはならない。

さらには、今日日流行りの生成AIである。明らかに生成AIに書かせた結果そのまま、という文章が公開されているのに触れるにつけ、優れた技術であるにも関わらず、それに追い付けずに衰退する人類知性を見るようで暗澹たる気持ちになる。上記のコピペ切り貼りとは違って、書き手が混ざっているような違和感こそ無いものの、それでも何処となく感じられる魂の無さがある。あの空虚さがどこから来るものなのか、具体的に明文化する事はまだ出来ていないのだが、ただ空虚であるという感を受ける。整った言葉でまとまってはいるものの、書き手のものではない借りてきた言葉で出来ている感というか。その、文章として整っているのに魂が感じられないという不気味さが、私にとっては、先述の「生成AI味」として感じられるのかもしれない。

物書きの矜持は

少し前に、某小説投稿サイトで生成AIにより作成された作品がランキングを席巻した、というニュースを見た。1日に数十本の小説を投稿するユーザもいるとか。

世の中、別に魂が込められている必要などない文章、というものもあるだろうと思っている。議事録などはその典型例であろう。むしろ、下手に書き手の色を出すべきではない類のものである。そういった文章を生成AIにまとめさせる、というのは理にかなっていると思う。書き手の色を出せないにも関わらず手間だけはやたらとかかる議事録のような文章は人の作業から離してしまって、人はその分だけ別の作業をした方が良い。ただそれでも、少なくとも現状では生成AIの出力をそのまま鵜呑みには出来ないので、それを人目で確認する工程10が必要ではあるが。

一方で上掲の小説とか、もしくは書き手の名を出して対外公開される論文・論説とか、そういったものを生成AIに書かせるという感性は理解し難い。書き手の名が広く押し出される以上、その文章は上述の通り書き手の半身である。その半身を介して書き手の心理・論理・知識・理解・その他諸々、を伝えるのが物書きというものの矜持ではないのか。それを生成AIに任せてしまった時、例えその文章が何らかの成功につながったとしても、それは書き手の半身とは最早呼べまい。1日数十本の小説など、投稿者が個々の内容に目を通しているとはとても思えない。そのようなものは投稿者の半身ではない。

件の某小説投稿サイトのニュースの件については他にも思う事はある11が、まず第一に、生きるためという訳でもなかろうに物書きの矜持無しに物書きをするというのが、全く理解できないのである。この、魂の込められていない文章を量産するという事についても、もしくは、前半で述べたような魂の足りない文章を平気で出せるという事についても。

余談 ー 英文の魂

私は一応、英文もそれなりには書けるつもりではある。国際学会や海外論文誌に投稿したこともあるし。ただ、英文を読んだ時に魂の有無を見定める事が出来るほどには、英語に習熟していない。英語の母語話者から見たら、私の英文などは魂が込められていないと見えるのだろうか。


  1. 同時に恐れてもいる事は否定しないけれども。
  2. 指導教官の発言意図としては、査読者の印象。
  3. 私が初めて書いた一枚の予稿など、今になって初稿を見ると実に酷いもので、実際指導教官の赤入れによって真っ赤になって帰ってきた。ここまで来ると正直、自分の文章とは?という気持ちにならない事もない。
  4. それでもときたま誤植が入ってしまった事は、実績として存在するのだが。
  5. 連体句が用言に係っているとか、その逆とか。
  6. 仕事での物書き程のクオリティではないとはいえ、このブログにおいても、そのような時には自らへの敗北と屈辱を感じる。
  7. 私個人の話としては、「らしさ」ではあるけれど君の文章は硬すぎる、と言われる事多し。もう少し柔らかめに、という方向の修正をよく頂く。
  8. 工学分野で頻繁に見られる記法。
  9. 即ち、剽窃元が容易に見つかる。
  10. それが文責というものであろう。
  11. それはまた別エントリにまとめたい。

未だ悪夢を見る

久々に外泊有りの出張中1である。とはいえ今日はもう帰るだけだが。

昨日の夕方に出張の用務は完了し、食事をして土産も買って、20時頃にはやる事が無くなった。疲れてもいたし、久々に早めに寝るかと思って寝床に入る。最近は寝不足続きなのもあって即寝落ち。ただ、久々の早寝に加えて慣れない寝床だからか、三時間毎に目覚め、今は丁度三度寝から目覚めた所である。

最初の三時間は良かった。しかし、二度寝・三度寝の際は久々に悪夢を見た。大学研究室で指導教官に詰められる夢である。大学研究室を離れてもう数年経つが、夢を見る時2は、シチュエーションは細かく違えど常にこの夢である。とても生々しい夢であり、心臓をバクバクさせながら起きた直後は、それが夢で現実ではないという事を意識するのに少し時間がかかる。寝不足は辛く体調に堪えるが、十分に寝たなら寝たで悪夢を見るようになる。良い落とし所はあるのか。

今はここしばらくの寝不足が祟ってまだ眠い。時間にはもう少し余裕があり、寝付けそうでもあるので、四度寝を試みる。


  1. 子供産まれたばかりであるにも関わらずそんな事をしていて、妻には大変申し訳ない。
  2. 正しくは、見た夢を覚えている時、という事か。