kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

拒絶・否定の器用さ

以前のエントリで次男三歳の夜泣きについて触れた。 blog.kolmas.tech ここ最近、この夜泣き傾向はかなり収まってきていた。3月でこれまでの保育園を卒園し、4月になって新しい幼稚園に年少で通いだした所、慣れない環境に置かれたためかここ数日再び夜泣きが発現しているが、3月中下旬はあまり夜泣きしていなかった。その頃も、時々深夜に起きたり、あるいは起こされたり1すると大泣きしていたが、それが毎日のように続いていた2月頃とは明らかに様子が異なっていた。

それと同時に、次男の言葉の使い方が随分と器用になってきたと感じる。特にそれを感じるのが、拒絶や否定の表現である。遅れてきたイヤイヤ期、という訳ではなさそうであるが。

正しい活用で拒否してくる

動詞を使う日本語の否定表現は、例えば英語等と比べると複雑なのではないかと思う。英語だったら、少なくとも自身が主語の現在形である限り、とりあえずnot付けておけば否定になる2が、日本語の否定表現には動詞の活用=未然形が必要である。日本語文法の話として、活用には動詞によって様々な種類があり、子供らが良く使うような動詞をいくつか挙げるだけでも例えば以下のようである。

  • 「やる」→「やら(ない)」:五段活用
  • 「見る」→「見(ない)」:上一段活用
  • 「食べる」→「食べ(ない)」:下一段活用
  • 「する」→「し(ない)」:サ行変格活用

こう書き出してみると、「しない」に関しては次男からは聞かない気がする3が、それ以外はどれも自然に次男の口から出てくる。ここに書いていない動詞についても、私が聞く限りにおいては、それらを否定表現に用いるときに正しく活用できているようである。さらに時折、我々家族が普段否定表現で使わない4動詞を用いた否定表現が次男から出てくることもあって、驚く所である。単に周囲の表現を真似しているだけではなく、規則性を見出しているのだろうか。勿論、保育園・幼稚園で聞いた言葉を使っているだけ、という可能性もあるが。

しかも未然形による否定表現だけでなく、連用形+「ません」の形で否定表現を作ってくることもよくある。上記例で言えば、即ち「やりません」「見ません」「食べません」等となる。これも意図して家族から教えた表現ではない。保育園・幼稚園で身につけてきたのかもしれないし、我々の電話口での言葉遣いを聞いていたのかもしれない。いずれにせよ、正しく動詞を活用してこれら否定表現を作って使えている。これを見ても、やはり言葉の規則性、しかも上述の通り比較的複雑なルールを、少なくとも一定程度は体得しているのではないかと思えてくる。そう思うと、変格活用である「しない」という表現が出にくいのも理解できる。

まぁそもそも自然言語の文法なんてものは、元々自然発生している言語の仕組みに規則性を見出し体系化するために後付けされたもの5に過ぎない。であるからして、その仕組みは人が自然に体得できて然るべきではある。ただここ最近の次男三歳の言語能力の急激な伸長を見て、人の脳はすごいなと思う所しきりである。これまでのエントリで何度か触れている自閉傾向長男の言語能力も伸長してきているが、次男と比べるとゆっくりしている。コンピュータ屋の端くれの視点からすると、正直、この長男の言語習得の様子の方がまだ納得できるくらいである。人の脳は、何故こうも勝手に色々なことを学んでいけるのだろう。

人のせいにしてくる? ー 状況の理解

若干話が逸れたが、次男の拒絶・否定の器用さの話題に戻って、先の話題の他にも器用さを感じた事として、自分のした事を別人がした風に答えてきたという事例がある。道義的には褒められた事ではないが、子供らしいと言えば子供らしい事ではあり、しかもこれは、自身の周りの社会を理解していないと出来ない事だろうと思う。

先日のエントリでも少し触れたが、半ば諦めてはいるものの、部屋を散らかされるのがどうにも駄目である。諦めてはいても思う所があるのには変わらず、その様を見るにつけ、つい「またこんなに散らかしてからに」等と呆れ声を発してしまう。先日、これを聞いた次男の笑いながら曰く、「〇〇ちゃんがやった」との事。ここで「〇〇ちゃん」は長男の愛称である。長男も次男も部屋を散らかすので、まあそうかと、報告をするようになってきたのかと思いながら聞いていた。しかし妻の曰く、その場に関しては実際に散らかしたのは次男であったとの事。それを聞いたら、散らかった部屋への苛立ちはたちまち霧消し、次男がそんな高度な事をするようになったのかという苦笑いに変化した。

次男がどこまで本気でこの発言をしたのかは分からない。少なくとも悪意はないだろう。妻が笑いながら「やったの●●ちゃんでしょー」と言ったら、次男も笑いながら「●●ちゃんがやった」と言った。ここで「●●ちゃん」は次男の愛称である。主語の考え方は、後述の「人に押し付ける」例からしても理解しているようであり、自分が言っている事の意味は分かっていそうである。ただ、言葉の意味が分かっていても、その文脈を捉える事にはまだ難しさがあるのかもしれない。この会話をしたその時に関しては、部屋を散らかしていたのは確かに次男であったろうが、普段は長男・次男のどちらも散らかす。その観点から答えれば、私の発言に対する次男の返答も間違ってはいない。私の発言はその時その場面のみに言及する意図であり、その意図は妻には伝わっていたものの、確かに字面に現れているわけではない。

どうあれ、言葉の器用さが増したな、と思うと同時に、自分に関わりのある人間や周囲の状況について、かなり正しく捉えられているのだな、と感じる事案であった。悪意で嘘をつくようだと困るが、そのような風でも無さそうではあり、今は純粋に発達を喜ぶ方向で捉えている。

人に押し付ける ー 主述の整合

他者を巻き込む表現でもう一つ面白いと感じているものは、その他者に押し付けるような形での嫌なものの拒絶である。これも割と最近出てきたもので、典型的な場面は食べたくない食べ物を出された時である。

長男も次男も食わず嫌いであり、新しいものは中々食べない。まず間違いなく自発的には食べないので、その類のものはまず大人が取って出してやる。これで食べれば儲けもの、更に味等が気に入れば続けて食べてくれる。一方、気に入らなかった場合は、それ以降は食べるのを拒否する。もしくは、見た目で気に入らないのか、最初の一口目の段階から拒否される場合もある。これらの場面における拒否の方法であるが、長男にしても次男にしてもよくあるパターンは、物理的に食卓から逃走するか、もしくは「食べない」と発言するか、である。本人が空腹でなくなってくると逃走率が上がる6ものの、「食べない」という表現は二人とも自然に出てくる。言葉で言えるのはとても良い事なので、後は逃走するのをやめて欲しい所である。

さて本題の次男、最近、上述の逃走と「食べない」に加えて、食べたくないものを出された時の反応に「パパが食べる」発言が出るようになった。これも初めて聞いた時は笑ってしまった。「パパが食べて」等のように要求の表現として完成してはいないが、明らかに私がそれを食べる事を要求している。そして本人は自分が食べたいものなら食べている。食べたくないものを私に押し付けたのだ。実際、私が食べたら満足気である。先にも触れたが、主語とそれに応じた述語の関係性が正しく確立しているのを感じる。この辺りが、長男はまだちょっと怪しい。

上記例だと主述の二語文だが、それだけでも表現の幅は案外と広いものだと思える。目的語を加えてSVO的になった三語文も話しているが、まずは主述がぴったり整合する事が大事なのだろうと感じる所であった。

言語発達の理論を知るべきか

上記全て、n=2である子供ら7の観測のみに基づく適当な発想である。より大規模な観測とそれに対する科学的手法による検討、の成果であるところの言語発達理論を勉強したら、それも面白そうに思える。そんな余裕があるのか、また勉強するにしても仕上がる頃にはその知識が不要になっていないか、という気はするが。


  1. 次男が外部要因で深夜に起こされる場面、というのは、大抵は三男が深夜に授乳を求めて泣く声による。それでも最近はほとんどの場合、起きずに寝ていてくれるが。尚、長男は基本的に一度寝ついたら、周りが泣こうが関せず朝まで寝ている。
  2. 一般動詞だったら助動詞do付けてdo notあるいはdon'tじゃないか、と言われそうだが、強調の意味合いで肯定文でもdo+一般動詞の形を取り得る事を考えれば、やはり否定の本質はnot付けるだけだろうと思う。
  3. 「する」→「しない」の意味合いは「やる」→「やらない」で概ね代替可能であり、今の所はそれで問題がないように思える。丁寧な表現として、将来的には当然身につけねばなるまいが。
  4. 肯定表現では使う。
  5. 私はそのように理解しているのだが、これは言語学の人に聞かれたら怒られるだろうか。
  6. そのくせ、再び食卓に戻って来て食べ始めたりする。それ以上もう食べそうにない時は、ごちそうさまを言わせるようにしている。
  7. 六ヶ月の三男はまだ喃語の段階なので数えない。

iPhoneを乗り換えた

妻と結婚する半年程前に買って、それ以来7年強程使い続けていたiPhone Xsをやめて、iPhone 17に乗り換えた。普段使いの範囲内でバッテリが一日中保つ間は使い続ける、というポリシだが、流石にそれも厳しくなってきていた。これだけ長期間使っていると手にすっかり馴染んだ愛着ある道具になっていて、ずっと使い続けたくもあるが、バッテリの劣化だけはどうにもならない。

7年強の間使い続けたiPhone Xs

どうせ買うなら良いもの買って長期間使い続ける、という事を信条にしているものの、私の利用形態的にiPhone 17 ProだのiPhone Airだのは不要である。そもそもiPhone Xsで、バッテリ以外には困る事は無かった1のだし。ただ、それでも良い値段する買い物なのであって、このiPhone 17も出来る限り長期間使い続けたいもの。

これまでの私のiPhone遍歴は4s→5s→Xs→17となっている。次はいつの日か、そしてその頃にはスマホというものはどうなっているだろうか。まだ「スマホ」であり続けているのだろうか。


  1. 強いて言えば、Apple Arcadeで配信が始まったCivilization VIIが入らない、という問題だけはあったのだが、そんなものは些事である。そもそも、のんびりCivilizationやっている暇など最早無い。civilization.2k.com

庭仕事的な何か

先日の以下エントリの続き、のようなもの。 blog.kolmas.tech

このエントリで触れた、洗濯物の始末に関するある意味病的なこだわりについて、行動規範化されているというのは勿論そうなのだが、それだけではないようにも感じられる。

「庭」の美観

洗濯物を取り込んで、仕分けて畳んで整えておく作業を相変わらずしている。それら洗濯物はどうせすぐに再び利用するので、仕分けておくまではともかく美しく整理する事には実質的な意味があまり無い、ということは自分でも分かっているのだが、やめられない。

上掲のエントリで述べた通り、そうすることが私の行動規範になっていて、それに従う事が目的化している節はある。ただ、それに加えて、自分が手を出すからには自分の完璧に仕上げておきたいという、これまた以前のエントリで触れた内容にも通ずる感覚をも覚える。手を出すからには、中途半端にしておきたくない。美しく仕上げておきたい。逆に言えば、これは上掲エントリでも触れた事だが、全てにおいてその姿勢でいるのは不可能なので、あえて手を出さないでいる事も多々ある。

思うにこれは、私にとって「庭」であるらしい。もちろんこれは物理的な意味における庭の事ではない1が、自分の管理している領域を秩序をもって美しく整えるという作業が、庭仕事に近しいように感じられる。

「庭」の耐実用性

庭に関わる人間は、その庭を手入れしている庭師だけではない。その庭を訪れ、鑑賞し、あるいは活用する人間という存在が、庭師とは別に存在する。そういった意味での実用性が庭には求められる。実用上の要件を満たし、さらにその上で庭師が思うこだわりを発現したものが、良い庭というものであろう。例えば盆栽等は、土いじり・植物いじりという点、また作り手のこだわりが発現するという点で庭との共通点を持ちえども、実用上の要件を持たないという点が庭とは異なる。

その点で、先程来述べている私の洗濯物始末は「盆栽」ではなく「庭」である2。整理した洗濯物のうち、明確に私のものを除いた残り、即ち妻の服と子供服及び汎用的なタオル類、について日々実際に手に取る事が多いのは妻である。そこで、妻の行動パターンを想定したり、もしくは本人に聞くなどして、妻が使いやすいように区分けして整理したり、もしくは実際に服が必要となる場所3に予め配したりしておく。その上で、ここからは私の勝手なエゴ、即ち実用上の要件にはあまり当てはまらない領域として、個々の洗濯物はきれいに畳むようにしている。ここまでくると、気になり始めたら徹底しないと気が済まないという冒頭掲載エントリの話で、その点の病識はある。

そうして組み上げられた私の「庭」であるところの整理された洗濯物が、その想定通りに妻に使われているのを見るのは、シンプルに快感である。自分のデザインした系=システムが上手く回っている事に対する快感であるという点で、一応は私の専門である情報システム関連も含む、全てのエンジニアリングに通ずる感覚なのかもしれない。実際の庭仕事に関しては想像しか出来ないものの、自分が手入れしている庭を他の人がその想定通りに鑑賞したり活用したりしている様を見るのは、庭師の喜びなのではないかと思う。庭師はエンジニア職だったのだ。

「庭」の最適化

逆に、「庭」が想定通りに使われていないというのは問題である。これを一概に「庭」を使う側の責とするのはエンジニア的な傲慢である。そのような場面では、「庭」の設計自体に問題があることも多々ある。私も、「庭」を「庭」として維持する事については固執しているが、一度設計した「庭」の設計に固執しているつもりはない。

かの洗濯物整理に関しても、取り組み始めた当初からすると、その整理の考え方はかなり変化している。洗濯物が使われている様子をその結果から観測して、上手く使われていないところを特定し、そこがより上手く回るように整理の考え方を変更して試してみる。例えば上述の「実際に服が必要となる場所に予め配しておく」設計を導入したのは割と最近の事である。そうしておかないと、未整理の洗濯物の中から必要な服を妻に探させてしまう事象が発生する事に気付いたのだ。それは、妻の手間が増えてしまっているという点で気になるのは勿論であるが、それに加えて、洗濯物の整理という私の「庭」の機能不全であるという点でも看過出来ないものであった。ならどうすれば上手く回るのか、を考えた結果が「実際に服が必要となる場所に予め配しておく」である。「庭仕事」の手間は増えるが、それで「庭」の機能不全が解消されるのは快感である。

その点、「庭」に関して意見を言われる事についても、必ずしも嫌であるわけではない。現状の「庭」が使いづらいという意見が、論理的に筋が通ったものとしてあれば、それを受け入れて「庭」を改修するのは全くやぶさかではない。その意見に適合するように秩序を改めた「庭」を作れば良いのである。秩序あるシステムとして「庭」が機能していれば満足なのであって、そのためなら、自分の発案でなかったとしても秩序の更新は惜しまない。

「庭」荒らしの排除

それとは逆に「庭師」として受け入れ難いのが、秩序やポリシー等を伴わず「庭」に手出しされる事である。実用に即する秩序ある美観を整えてある私の「庭」が、無秩序に荒らされることは認め難い。勿論、現状の「庭」にシステムとしての使いにくさがあって、そのせいで本来想定された使い方をされていないのなら、それは「庭」の設計を改めるべき問題であって、上述の通りそうする事に何の躊躇いも無い。しかし、特にそういった理由もなく「庭」の構成を改められたり、もしくは散らかされたりする事が、感情的にどうしても受け入れられない。

具体的には、例えば先程来取り上げている洗濯物始末の話題、「庭仕事」としての洗濯物始末のプロセスに割り込まれないように、全て先回りして作業しておくことを意識している。例えば風呂場の脱衣所に設置してある洗濯機、これに洗濯・乾燥済の洗濯物4が残っている状態で、妻が子供らの風呂入れのために風呂場に来たとする。すると子供らは勝手に洗濯機のドアを開けて、中身を脱衣所に散らかしたりする。これが私の感情的に駄目なのである。子供らが、こういったものを散らかしたがるというのは仕方ないものと、理解してはいる。しかし、そうされることを私が認められないのは感情的・情動的な反応であり、それを前に「理解」など無意味である。理解で感情を抑えられないという事に対しては、アンガーマネジメントをもっと訓練しろよ、と言われるだろうが。どうあれそんな事が起こるので、こうなったら子供らが風呂にやってくる前に、先回りして洗濯物を取り込んで手出しされないようにしておく、というのが今の所の解決策である。

「庭」を荒らされる余地を残さない、という「庭」の設計をするのである。システムとして対処・解決するという事。そこまで含めて設計した「庭」の機能美を愛でるのだ。

「庭」の遺棄

とはいえ、そういった意味での「庭」のシステム化を突き詰められない領域は、特に子供らが関わる場面では多々ある。というより、未就学児である子供らを秩序だったシステムに組み入れるという事は不可能だろう。それも理解してはいる。

上述の洗濯物始末に関しては、その「庭」に子供らが割り込んでくる余地を排する事によって「庭」たらしめている。ただ生活の場でそのように出来る場面はむしろ希少である。例えばリビングには絵本をしまっている本棚がある。しばらく前までは、散らかった本を片付ける際、何となく絵本の内容やシリーズによって分類していた。しかし子供らは常に散らかすし、それを毎回私が片付けられる訳でもない。今の段階での「庭」としてのシステム維持は不可能であると悟り、分類整理は止めた。

ここでまた、冒頭掲載エントリの話が効いてくる。即ち、やるからには徹底したくなってしまい、逆に徹底出来ないものには手を付けない、という点である。絵本を美しく片付けるという「庭仕事」は不可能だと悟った瞬間、絵本の片付け自体をしなくなってしまった。絵本が散らかっている空間を別用途に使うために5、それらをまとめて無作為に本棚に放り込むくらいの事はするが、それは「絵本を本棚に片付けた」とは言わない。

そのようにして管理を断念した「遺棄された庭」は結構ある。勿論、出来るならそれら全てに再び「庭」の美しさを取り戻したいと思うが、その実現は現実的には無理である。気にして取り組み始めてしまうと徹底しないと気が済まないので、努めて気にしないようにして精神の安寧を守っている。守り切れずに小言が出てしまう事は多々あって、妻には大変申し訳ない所なのであるが。。。

視野狭窄の感はある

私のこのような振る舞いが、全体最適の視点を著しく欠いている事は自分でも良く分かっている。

洗濯物始末の「庭」にやたらとこだわって睡眠時間を削るより、睡眠時間を伸ばすなりその他の事に手を付けたりする方が良いに決まっている。徹底出来ないから手を付けないのではなく、それぞれを「てきとう」に済ませながら色々な事をした方が、系全体にとっては有益だろう。それは分かっているのだが、尚も細かい所に囚われて、その範囲での局所最適を目指してしまう事を止められない。視野狭窄である。先にエンジニアという言葉を出したが、真にエンジニアリングを突き詰めるなら系全体の最適を指向すべきであって、局所最適の追求に囚われてはいけない。生活の全てが、それ全体で一つの「庭」であるべきなのだ。

分かっているが、しかし止められない。やはり病的。


  1. むしろ、物理的な意味における庭の手入れなどほとんどした事がない。
  2. 少なくとも、自分としてはそうであるつもりである。
  3. 具体的には風呂場の脱衣所。子供らを引き連れて風呂場に来る妻に、その時必要な着替えを別の場所から持ってくる余裕は無い。
  4. 先日のエントリで述べた洗濯物始末の手順でいうところの、前日深夜に仕掛けた二回目の洗濯の結果。
  5. 典型的には、子供らの寝床にするために。

回転機械の原体験は(多分)ラピュタ

子供らが家の中から竹とんぼを掘り出してきた。私が子供の頃から家にあったものである。子供の頃は、手の中で横にしてくるくると回して、「天空の城ラピュタ」のタイガーモス号1のプロペラに見立てて遊んでいた。不器用だったし、家の中で飛ばすのはそもそも危なかったので、竹とんぼ本来の遊び方はしていなかったが、なんとなく当時を思い出せる玩具である。

そんなことを考えているうちに、ラピュタには印象的な回転機械が多いな、とふと思った。例えば以下。

  • オープニング映像に登場する様々な機械
  • 劇中冒頭でパズーが操作しているエレベータの機関部
  • タイガーモス号の機関室

今でも、回転機構を持つ機械をずっと眺めていられるのだが、これらはその原体験であるかもしれない。フラップターなど、同作には他にも印象的な機械が沢山あるが、重厚・無骨な回転機械の描写が心に残る。


  1. 海賊ドーラ一家の飛行船。

行動規範の奴隷

ここ最近の体重増加傾向を見るに、そろそろ再び減量に舵を切らねばならないと思っている。私の身長は170cm強で、そこから導かれる適性体重1は60〜65kgだが、今の体重は75kg程で尚増加傾向にある。また数値的に見るまでもなく、明らかに腹が出てきていて、適正体重の頃に作ったスーツ2がキツくなっている。そのスーツを作ったのは一年半ほど前の事であり、その短期間で15kg程重くなっている訳で、かなりまずい。

間食完全断ちダイエット

実は、以前は体重が85kg近くにまでなっていた時期がある。その頃の検診で肝機能にD判定を貰い3、いよいよ危機感を覚えて減量に着手し、その成果として体重を60kgまで落とせていたのが、上述のスーツを作った時期である。

運動して代謝を上げる事によって痩せるのが最も良いのだろうが、生活の中に新たに運動習慣を取り入れる余裕など無い。必然、摂取カロリーを減らす方向で考える事になり、実際に取り組んだのが、間食を完全に断つ事である。職場には無料で制限なく飲めるカップ自販機と、こちらは有料だが菓子・軽食を置くオフィスコンビニがある。とても良いものであるが、減量の観点からは悪い文化である。これらの利用を完全にやめ、職場で昼食以外に口にするものは冷水機の水だけにした。それ以外にも、ほぼ全ての間食とデザートを止めた。甘党の私には苦行である。当時、自分に許していた甘味は、0kcalのゼリーかICEBOX4くらいのものであった。

その効果は凄まじく、月間2〜3kgのペースで痩せ続け、1年弱で20kg強の減量を成した。肝機能はB判定になり、その翌年にはA判定にまで戻った。出ていた腹も引っ込み、メタボリックシンドローム判定にも引っ掛からなくなった。それまでどれだけの間食を摂っていたのかという話であり、ある時計算してみたら、間食だけで1000kcalを超えていたのではないかと判明してゾッとした。普段から朝食を食べない一日二食生活をしている5が、それにしても摂りすぎであろう。私の体からしたら、ある日突然この1000kcal超のエネルギー供給が失せた形だが、それならそれで備蓄の栄養を使って回していた訳で、人体の適応力には感心する。

とはいえ、これは本質的に不健康な痩せ方ではある。単にエネルギー供給を減らすだけの減量は、ただでさえ低い代謝をさらに下げ、リバウンドしやすくなるという。その結果が冒頭にて述べた現在である。体重が60kgに至ったあたりで、そろそろ間食を多少は入れても良いだろうと考えて「完全断ち」を止めたが、その後は着々と間食量が増えてゆき6、15kgのリバウンドに至っている訳だ。これはこのまま放置したら、恐らくまだまだ増えると思われ、そろそろまた「完全断ち」を再開しなければならなそうである。

徹底する or 何もしない

この減量の話にしても、他の何かにしても、自分の行動について「てきとう」な匙加減で取り組むという事がどうにも苦手である。ここで言う「てきとう」とは、雑であるとかあまり考えずに決めているといった片仮名の「テキトー」と、妥当とか適切・適量といったニュアンスでの「適当」の、両方の意味を含む。

上述の「間食完全断ち」は、それまでの私の生活状態との比較、即ち1000kcal超のエネルギー供給の急峻なカットかつ好物である甘味のほぼ全ての制限、という視点で見ると、かなり苛烈な行動規範であったと思う。ただ、ひとたび自らに行動規範を規定したらば、それを徹頭徹尾、例外なく徹底しないと気が済まなくなる。最早盲目的に行動規範に従っているとすら言えるかもしれない。一度でも行動規範に例外を作ってしまうと、その後早々にその行動規範が瓦解してしまうという精神的な未熟さを自覚していて、それ故、例外を作ることに恐怖している節もある。どうあれ、「てきとう」に出来ない。

そのように行動規範を継続させるという点では、私にとっては、むしろその行動規範が苛烈であればあるほど効果が高いのかもしれない。自分で規定したものとはいえ、苛烈な行動規範に従えている、という事それ自体が一種の快感をもたらしているきらいはある。手段が目的化しているといえよう。若しくは、奴隷の鎖自慢か。その鎖には自分で自分を繋いでいるのであって、そう考えるとマッチポンプ的ではある。

とはいえ、ありとあらゆる物事に対してこの考え方でいると疲弊してしまう。そのため、普段の私は様々なことを気にしないで過ごしているようである。ひとたび何かが気に掛かってしまい、それに対応していると、そのうちにそれが行動規範化していき、それに従う事が目的化する。こうなるともう「てきとう」に出来ない。そうならないように無意識下で、周囲の環境や状況に無頓着でいるようにしているのだと思う。これが周囲7には、特定の物事に関しては「てきとう」にせず病的に徹底する癖に、その他のことに関しては「テキトー」が過ぎる、という風に映るらしい。まぁ、その印象自体には反論の余地は全くない。

その点では、この行動規範化の事例の一つであるところの「間食完全断ち」は、取りやめた後に「てきとう」に過ごす事が出来なかった結果、結局はリバウンドして今に至っている。再度の規範化が必要である訳だが、そうする踏ん切りがまだ付いていない。苛烈な行動規範は、運用し始めれば上述のようにそれ自体が目的化するが、運用し始める事の精神的ハードルは高い。この初動の遅さも問題点ではある。

事例②:洗濯物始末

三男が生まれて以来、家族の洗濯物の始末は主に私がしている。先日もあったような外泊付きの出張等で長期間不在にする際はどうしようもないが、そうでなければ概ね私が洗濯機を回し、また取り込んだ洗濯物の始末をしている。これも私の中では、上述の表現で言うところの行動規範化されている行動である。

我が家で洗濯機を回すタイミングは、基本的には深夜である。深夜電力の活用。ドラム式の乾燥機付き洗濯機であるが、洗濯物の量が一回の洗濯→乾燥で干し切れる範囲を超えているので、一回乾燥なしで洗濯だけを回し、その結果を浴室に干して浴室乾燥機をかけ、次いで残りの洗濯物を洗濯機に放り込んでこちらは乾燥付きのコースで洗濯機を回す。一回目の洗濯の前には、昨夜の洗濯物が洗濯機に入りっぱなしになっているので先にそれを取り込む。また、浴室乾燥機で干した昨夜の洗濯物は、風呂に入る前のタイミングで取り込む所まではしてある。どうせ二回目の洗濯のために一回目の洗濯が終わるまでは待っていないといけないので、その間にこれら昨夜の洗濯物を仕分けて畳む。もっとも、仕分け・畳み作業が終わるより先に一回目洗濯の方が終わるのだが、手を付けたからには最後まで仕分けて畳む。

この工程が、「昨夜の洗濯物」の分量次第ではあるが、概ね一時間半から二時間程度かかる。夜型な子供ら8の寝かしつけ事情や私の仕事都合などがあって、着手するのは概ね23時〜0時頃、従って完了は1時〜2時頃となる。完了後すぐに寝付ける訳でもないので、翌朝が出勤であったりすると、睡眠時間を強く圧迫する。

それでも止めていない。仕分けて畳むのを止めるとか、二回の洗濯の片方を昼間に回すとかすれば、夜の時間の圧迫を減らせる事は分かっている。しかし、翌日に向けて洗い上がった洗濯物を美しく9仕分けて整えておく事が、最早、必ず達されねばならない何かになっていて、止められない。仕分け作業は後である程度役に立つが、美しくしておく事には実質的な意味があまり無いという事も分かっている。それでも、着手するからには徹底的にやらねば気が済まない。また、その作業をしているのなら、その裏で初回・二回目の洗濯を回せば良いという気持ちになり、そちらも合わせて止められない。

病識はあるけれど

間食完全断ちをしていた頃は病的だから止めろと言われていたし、今の睡眠を削った洗濯物始末も病的だから止めろと言われる。私自身も、これらの行動規範が病的であろう事は否定しない=病識は持っているつもりである。何と診断されるものかなどという事は、分からないが。

しかし病識があったところで、止められるかは別の問題である。そもそも、理性で行動を止められる位だったら、その行動について病的であるとは最早言うまい。如何ともし難い所である。

続きのようなものを書いた。 blog.kolmas.tech


  1. カシオの高精度計算サイト、で計算。高精度が必要な計算ではないが、このサイトは色々な計算機能が元からあって便利。いつの間にか運営がカシオでなくなっていた。keisan.site
  2. 宮崎に出張した時、アパレル業界出身の同僚の案内で「宮崎ファクトリー」を訪ねて作ったもの。体系計測してフィットするスーツを作ってくれる。生地も膨大な選択肢の中から選べて楽しい。miyazaki-factory.jp
  3. 酒など全く飲まないくせに。脂肪肝であったのだろう。
  4. 一つ食べても15kcalしかない。素晴らしい。
  5. 朝食を摂るくらいだったら、30分余計に寝ることを選ぶ。
  6. それでもまだ、最盛期の頃ほどには食べていないと思うが。
  7. 両親によく言われる。
  8. 要らん所ばかり私に似よってからに、と思う。
  9. 美しく、とは言ったものの、私は不器用なのでもっと美しく整える人はいるだろう。むしろ、丁寧にやらねば最低限の美しさも保てなかろうという意識。