つい先日、仕事関係の懇親会にて隣の席の人と、昨今の生成AIで何がどこまでできるか、という話題で盛り上がった。その人は古参の本職プログラマであり、その人とは比較するのもおこがましいが私も野良プログラマの端くれ1、今日のプログラマ・プログラム開発のありようという話が起点となって、生成AIの話に進んでいったと思う。今時プログラムも生成AIが書くような時代になってくるとして、そんな中で人の役割は何になっていくのか。で、その議論の中で私から振った話題が、表題の「AIは地動説に辿り着けるか」である。
尚、私はAI技術の専門家では全く無いので、この話題についてはなんとなくの印象・雰囲気でしか物を書くことができない、ということをご容赦いただきたい。専門の方から見たら、こいつ何ふざけたこと言ってるんだ、ということばかりだろうと思われる。そもそもこの話題自体、きっとn番煎じであろうし。それでも書きたくなったので、思ったことを書いてみる。
天動説が普遍的な世界のAIを想像する
天動説が当たり前に信じられていて、地動説などというものは影も形もない、という場面にAIがあったと仮定したとき、そのAIは人の助けなく地動説的な考え方を提唱することができるか。人類知性は、天動説しかなかった時代から、紆余曲折はありながらも地動説を導きたし、それが現在の当たり前になっている。現在のAI技術を先の仮定に当てはめたとき、そのAIに星の動きを観測したデータを入力した結果として地動説を提唱する、ということができなければ、人類知性にはAIに再現できない「何か」があるらしく、まだ捨てたもんじゃないなと思える。一方、できてしまうなら、もう本当に人類知性はAIに取って代わられるのかもしれない。
実際に使ってみての肌感覚でしかないが、昨今話題の生成AIを先の仮定に当てはめたとしたら、入力した星の動きの観測データを無理やり2天動説にこじつけてくるのではないかと思う。生成AIが生み出す情報は、既存の膨大な情報を処理した上での統計・近似である3と理解している。その既存の情報が「天動説が当たり前に信じられていて、地動説などというものは影も形もない」という前提において溢れているものであれば、生成AIには、その枠から外れる出力は出来なかろうと思う。
この記事を書き始めてから「地動説 AI」あたりのキーワードでググってみたら以下の記事を見つけた。 gigazine.net この記事についても、読んでみると4AIは太陽を中心とした火星の軌道の計算式を見出したとしているが、その意味理解をしているわけではないと書かれている。またそれ以前に、地動説を知っている人間がAIにデータを与えているという時点で、先の仮定と比較したら十二分に恣意的な入力なんじゃないの、とも思う。
「地動説 AI」をググったところから以下のような言説も見かけ、まぁそういうことよね、と思う。 note.com event.ospn.jp
となると、今のAIになくて人類知性にあるものは何なのか、ということを考えてみたくなる。既存の情報の延長線上にない概念を想像・創造する能力、と言い切ってしまえれば楽な気もするのだが、人間の創造性にしてみても、既存の情報の積み重ねがあった上でその延長上に発するものではないか?
巨人の肩の上のイボ
学術の発展における博士号の立ち位置を端的に図示した、Matt Might博士による記事がある。英語であるが、図と合わせて簡単に読める。 matt.might.net 曰く、人類の知識全体を示す大きな丸の、その境界を押し込み続け、その結果として境界を少し押し広げられたとき、そのイボのようなくぼみが博士号と呼ばれるものである。私自身、曲がりなりにも博士号を持つ身5、そういうものなのだと思う。また、博士号に限らず人類の知識を拡大してきた全ての営みは、このくぼみを6数多作って大きく深くめり込ませていくことであって、それが積み重なり全体の丸は大きくなってきたのだ。
Googleの論文検索サービスGoogle Scholarのトップページには「巨人の肩の上に立つ」というフレーズが掲げられている。巨人の肩の上、という表現の成り立ちや使われ方はWikipedia記事等に詳しい。 ja.wikipedia.org 先人の経験・知見の積み重ねを巨人と喩え、その肩の上に立っているからこそ、より遠くの地平を見渡せる=新しい発見をすることができる、ということを指す表現であると私は解釈している。先述のイボのようなくぼみの喩えにしても、この巨人の喩えにしても、言わんとしている所には共通点があると思う。巨人にイボができて、それらイボの積み重ねで巨人全体がさらに大きくなっていく、といえよう。
さてこのように、既存の知識・知見のもと、その延長に新しい知見=イボが生み出されていく、と考えたとき、既存の知識・知見を集約するという過程については、人間はAIに敵わなかろう。現在のコンピュータが持つ計算能力で殴られたら、人間の情報収集・処理能力で敵う訳がない。ただの統計・近似であるAIチャットボットが、極めて自然な口調で個々人が思いつかないことまで回答してくれるのも、突き詰めて言えば個人レベルの人間がとても処理しきれない情報を捌いているからである。そう思うと、その計算能力の暴力でもって新しいイボを生み出すことすら、不可能ではないのではないかという感覚を覚えなくはない。
最後に頂いた示唆
しかし現実には、そんなことにはなっていないし、当面ならないとも思っている。AIチャットボットが個人の知識を凌駕した回答を返してくるといっても、それは個人と比べているからそう認識されるのであって、個人の知識の総和であるところの人類知識を超えてきている訳ではない。ただ、そう思っている理由、すなわち既存の知識・知見を扱うことにおいては人間を圧倒するAIが未だ持っておらず、それゆえに人類知性の意義であるところの何か、が何であるのか、明確に表現することができないでいた。そんな話で、冒頭で言及した懇親会で盛り上がっていたわけである。
懇親会の終わり際ごろ、その話し込んでいた相手の人から、それは仮説を立てることではないか7、という示唆を頂いた。これには腹落ち感があった。仮説を立てて検証するというプロセスは、学術の発展において何度も繰り返されていることであるのは勿論そうだが、それ以前に普段の生活の中ですら行われていることである。一方AIは、人が仮説を与えればそれを検証するのに強力なツールになることに間違いはないが、自ら新たな仮説を生み出すことはしない8。
そして仮説を立てるということは、ただ当てずっぽうに色々言ってみれば良いというものではない。既存の知見や観測、実験、それらを元にした考察などあって初めて、芽のありそうな仮説を立てられる。故に、仮説を立てることが人類知性の意義といえるなら、AI興隆の現在においても、人が苦労して学び、習熟する意義もまたあり続ける。
考えることはまだまだある
と、一定の腹落ちはあったのだが、まだ色々考えられる気がしている。
- 仮説を立てるということの他に、人類知性に残されたものはあるのか。
- 仮説を立てるということは、永劫AIにできないことなのか。9
- 、、、
頂いた示唆だけに頼っていては人類知性の意義もなし、とはいえ本業ではないので、あてもない思索トピックの一つにしておく。天動説の時代とは違い、仮説を述べただけで命に関わる迫害を受けることは、余程のことでなければ10ない訳で。
余談
この話の中で、件の相手の人11から「チ」というアニメ作品を見たかと問われた。否と答えたら強くお勧めされた。多分コレ。 anime-chi.jp 天動説と地動説の争いがテーマにあるとのこと。地動説とAIの仮定はずっと私の頭の中で温めていたのだが、あまりにもドンピシャな話題だったので、この作品を見たのかと思ったとのこと。これはちょっと見てみねばなるまい。
余談2
人類が持つ知識はもう十分だ、これ以上知識の「円」を押し広げる必要はない、故に人類知性の役割も終わりで良い、と考えられる方がいたら、上掲のMatt Might博士による記事を最後まで読んでみると良い。ここに再掲する。 matt.might.net
- 最近は趣味のプログラム開発もほとんどしておらず、極たまにちょっとしたデモを作るためのプログラムを少し書くくらいである。アマチュアを名乗るのもおこがましい。↩
- 時にハルシネーションを伴って。↩
- このあたりをフワッとしか掴めていないので、こんな雑な表現しかできないのだが、究極的にはそういうものだろうと考えている。↩
- 一応博士号持ちの元研究者として、このような記事の又聞きで済まさず原典の記事なり論文なり読んでからモノを言えよ、というかそれ以前にもっとちゃんと既存文献を調べろよ、という話ではあるのだが、ちょっとそこまでの余裕はない。論文書いてるわけではないのでご容赦いただきたい。↩
- まあ私の作ることのできた「くぼみ」なんて、偉大な諸先輩方のものと比べればとてもとても小さい、誤差のようなものであるが。↩
- その大小の違いこそあれど。↩
- これ自体もまた仮説であり、自己参照的で興味深い。仮説を立てるということである、という仮説を証しうるか?↩
- 少なくとも、まだ。↩
- 特に上述の「ただ当てずっぽうに色々言ってみれば良いというものではない」については、それこそ「計算能力の暴力で殴る」ことで解決というか度外視できる、という反論があり得る気がする。とはいえ、真に「当てずっぽう」なことをコンピュータに言わせるのも難しかろうが。↩
- とはいえ、この「余程」という匙加減が時代や社会によって移ろっているだけだと思えば、本質的には今も昔も変わらない?↩
- アニメ好きを公言されている。↩