kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

「チ。」を読んだ:動機不純と研究者の良心

「チ。-地球の運動について-」の感想その2。それ以外の内容も関連するものの、今回の話題の起点は主に第3集、及びそれを含む第二部関連。

以前の感想エントリは以下。 blog.kolmas.tech

功名心は人の性

第一部のラファウが純粋に地動説の美しさに魅せられて行動しているのに対して、第二部に登場するバデーニは幾分俗物的な人物である。彼は自身が世界に名を残す存在になることを元より夢想しており、オクジーがもたらした石箱の資料から、地動説がそれを達するものであると確信してそれを追求し始める。彼は当初その成果を自らのみのものとせんとし、ポトツキに地動説がもたらした利益の1割を寄付するよう求めるラファウの書き置きを焼き、また自身が地動説を完成させられなければ彼が関わった資料を全て燃やすよう指示する。地動説に対するラファウの接し方と比べると、彼はかなり動機不純であるように見える。

とはいえ、私の感覚としてはバデーニの行動はラファウのそれよりも余程人間的である。何らかの見返りなしに物事を追求し続けられる人間は、普通は1そういない。当初のバデーニはそれを象徴しているように思う。彼はその象徴として極端な人物造形であるが、彼が言うほどに大仰なものでなくても良いにせよ、人間には見返りが必要である。第二部のヨレンタは登場当初、自分が書いた論文が彼女を助手としているコルベの名義で発行されたことに嘆いている。コルベが彼女を庇おうとする善意からそのようにしたことも、その中で自分が研究を続けることはできるとも、理屈では納得していながらに、である。真理の探究に僅かなりとも自分が貢献したという誇りが必要なのだ。自分の中だけで閉じたものではなく、記録として残り続けてその貢献の証明となるものが。それが論文というものである。彼女はそれをコルベに奪われたことを割り切れない。それはとても普通なことである。

バデーニはともかくヨレンタのこの感覚は、単なる功名心とは言い切れない気もしている。私も研究者くずれとして、論文は何本か書いている。多くの論文は、採録されたとしてもその後はほとんど読まれない。結果的に偉大な論文となるもの2はごく僅かで、その他の論文は忘れ去られていく。私の論文にしても後者の部類3である。ただそれでも、すなわち他者からの評価を受けず忘れられていくにしても、人類知に僅かながら自分が爪痕を残した証跡があるというのは、研究者としての誇りなのだ。だから上記のヨレンタの嘆きにはとても共感できるし、逆に、ラファウが自分の証跡を残さずに4地動説を後世に託した行動には聖人君子的眩しさと同時に狂気も感じる。

その誇りに功名心の側面は確かにある。それが強すぎると当初のバデーニのように知とその栄誉を専有しようとする方向に流れてしまうのだろうが。しかし功名心自体は人の性である。

人類知の拡大は人の貢献の積み重ね

人類知を押し広げるのは、作中でも、もしくは以前のエントリ5でも触れた通り現在においてもまだ、人の役割である。 blog.kolmas.tech その点で、その貢献を成さんとする人には相応に功名心があって然るべしだし、成した貢献は誇るべきだし、その他にも報われることがあるならばそれも素晴らしいと思う。上述のラファウの聖人君子的眩しさと比べたら動機不純なのだろうが、そうであって構わないと思う。バデーニの名誉欲を起点とした地動説の探究も、結果として作中世界の人類知の拡大に貢献している。知の探究の門戸は動機の如何を問わず誰にでも開かれている。

ただ一方で忘れてはならないのは、人類知の拡大は多くの人の貢献の積み重ねであって、一人で成し得る事ではないという点である。バデーニが地動説の完成に至ったのも、そもそもまず最初に石箱の内容を受け継ぎ、そしてピャストが蓄積した観測記録を得たからこそである。それらはバデーニの貢献ではない。先のエントリでの表現で言う所の「イボ」を皆押し広げていて、丁度バデーニが押し広げた所が一線を超えるポイントだったに過ぎない。その点で、当初のバデーニが示した、先人の貢献を全て我が物としてしかも後進に引き継がないことを指向する傲慢な功名心は、研究者の取るべき態度としては相応しくない。研究者たるもの、自分の研究が後進による追求の踏み台になる事をむしろ喜んで受け入れるものである。そうでなければ人類知の拡大は停滞する。自分が新しいイボを支える地層の一部たることに喜びを覚えるものだ。

またもう一つ重要な点は、自分が間違っている可能性を受け入れるということである。これを象徴しているのはピャストであろう。彼は、完璧な天動説の完成を目指して研究を進めていた。彼もまた、かつて師が示した完璧な天動説に魅せられてそれを追求しているという点で、地動説を追求する主要登場人物と同じである。ただ、彼はその固執から、それに対する反証となるかつて見た「満ちた金星」を否定していた。主張に合わないデータを受け入れないのは科学的手法とは言えない。しかし彼は最終的に、オクジーが見たそれを受け入れ、自身の記録をバデーニ等に引き継ぐ。先述の「踏み台」の話にも通じるが、自らの主張に合う合わざるを問わず、自らが間違っている可能性も含め、自らの研究成果を後進の踏み台にさせることは研究者の姿勢として重要である。実際、ピャストの観測記録があってバデーニは地動説を完成せしめた。不正解は無意味を意味しないという、第一部のフベルトやラファウの発言にも通ずる所がある。

そういう意味で、研究者のあるべき姿を述べているのはバデーニではなくオクジーの方である。何事かに取り組んでいると、人の視野はどうしても取り組んでいる対象に集中しがちである。その点、地動説の追求そのものに対するオクジーの立ち位置が、ある意味で第三者的であることが、彼に俯瞰的視点を与えているようにも見える。彼は物理的な意味で目が良いと言われているが、この俯瞰的視点から研究というものの本質もよく見えている。そもそも彼は登場当初から、与えられた状況に対する自分の見解を定めて明文化することを得手とする6描写がなされていた。彼の、研究、そして「託す」ことに対する見解の表明は、バデーニにも影響を与えている。

動機不純でも研究者の良心は携える

研究者として、上述のあるべき姿、言い換えれば良心は携えねばならない。研究者の良心は、その研究者の俗物的な感情と相容れないわけではない。

繰り返しだが、人類知の拡大が人の役割である以上、その貢献に対して見返りを求めるのは普通のことである。動機不純と言われようが知ったことではない。聖人ではないのだから。「真っ当な」研究成果は、自分が人類知に僅かにでも爪痕を残した記録として誇るべきである。自己参照的な功名心とでも言おうか。自分で誇りを持てているということも人にとっては大きな見返りであり、それが無い状態は精神衛生に悪い7。さらにそれが、どのような方向性であれ後進の踏み台となれば尚良い。それこそ研究者としての功名心が満たされるポイントである。自分の名前が著者欄に載っている論文が別の著者の論文から引用されていることは、どうしようもなく快感である。

ただ、それを履き違えて、研究者の良心を忘れて功名心やその他俗物的な感情が暴発すると、現代でいうところの研究不正や疑似科学などといった、「真っ当でない」唾棄すべき結果に行き着く。それを避けるストイックさは必要。研究者のコミュニティというのは、その良心を携えた集いであるということを前提として出来上がっている。また、そうであっても、上述のささやかな功名心は満たせる。

周囲の理解も必要

と、研究者に対してストイックさを求めつつ、そうでない人にも、研究・研究者とはそういうものだという事は知っていて欲しい。昨今何かと、分かりやすく断言的、また利益につながりやすい、という事が研究成果に求められがちである。しかし研究成果というものは必ずしもそうではない。研究者の良心のもと得られた研究成果は、後から改良されたり、反証されたりしうる。それは例えば、フベルトやラファウの真円軌道を想定した地動説が、バデーニによる楕円軌道の導入を経て洗練・完成されたように。もしくは、ピャストが追求した完璧な天動説が反証されながらも、その検討成果がバデーニによる地動説の完成に貢献したように。このとき研究成果とは、バデーニによる地動説の完成だけではない。それまでの過程にあるフベルトやラファウ、ピャスト等の検討も、それぞれ後進の踏み台となった重要な研究成果である。

個々の研究者が研究者としての良心にストイックである必要があるのは当然だが、人類知の拡大が上述のような繰り返しの作業である以上、周囲も「地動説の完成」に相当する部分だけでなく、その過程も重視して欲しい。それこそが研究の本質である。ストイックとは言いながら研究者も人、それゆえの不純な動機も弱さもあるわけで、周囲の理解がある中で自身を律する方が余程楽である。断言的な大きい成果ばかりを求めるのは、研究不正や疑似科学を醸す土壌である8

その点では、現実の現代と比較したときに作中世界の研究環境は遥かに劣悪である。そもそも地動説の研究自体が強く糾弾されている。そうでなくても、例えばヨレンタの論文を悪意なく自分の名前で発表するコルベが存在するなど、良心ある研究者文化・コミュニティも成立していない。その中で、動機不純なところはあっても真理の追求には真摯であったバデーニは、最初に「幾分俗物的」などと言ってしまったものの十分に「聖人」寄りではあると思うし、オクジーの研究の本質を捉えた慧眼もまた素晴らしい。


  1. そういう点でも、以前の感想エントリでも述べた通り第一部のラファウは狂気に足を踏み入れていると思う。
  2. 偉大な論文、をどう定義するかにもよるだろうが、後続の研究に大きな影響を与えたか否かという観点で捉えれば、それは後になってみなければ分からない。その論文、ひいては研究が偉大か否かなど事前には分かりようがない。
  3. それでも一応、幾らかの論文に引用されるくらいのことはあって、これはとても嬉しく有難いこと。
  4. 上述の書き置きはあるにせよ、それすら、内容はポトツキへの寄付を要求するものなのであって。
  5. 改めて、このエントリ書いたの「チ。」を読む前である。今から思えばあまりにも偶然の一致が過ぎるし、そりゃあ件の懇親会の人も「チ。」を読んだのかと問うてくるだろう。
  6. 当初は、その見解は超ネガティヴなものであったにせよ。
  7. 実際その状態で病んだのが、以前の感想エントリでも述べた通り、私。
  8. 永田礼路氏による「エセ科学のまんが」を紹介させていただきたい。www.pixiv.net