kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

研究者・教育者指向父親像

息子が二人いる。とても可愛い。

このうち長男5才は自閉傾向有と言われていて、総合的な発達年齢は2歳半程度と判定されている。基本的に仕事が狂ったかのように忙しく、自閉症療育を含む普段の子育ては土日に少し手伝える程度で妻1に任せきりである。まずそれ自体が父親として如何なものか、という心苦しさは常にある。

妻に勧められて、ここしばらく職場帰りの通勤電車内2で以下の本を読んでいた。

そして開眼した。成程これは知的探究であり科学研究であると。

仮説・実践・検証、その反復

同書には「科学の目」というキーワードが出てくる。その根底にある考えは、子供を観察してその現状及びそれに対する有効なアプローチの仮説を立て、それを実践し、その効果を検証する。効果が見られなければ現状認識やアプローチの仮説を再設定し、再び実践・検証する。効果があれば仮説は正しかったという事だが、そこに留まらず、取り組みの中で変化する子供の状況を観察し続け、新たなステップに向けて次の仮説検証ループが始まる。

この説明は、研究者くずれの身には至極当たり前のことに映った。これは科学研究の本質であり、これに知的快楽を見出すのが研究者という生き物である。ただ、これまで私は長男にこの考え方を適用した事があまり無かった。普段から子育て関係の大部分を妻及び同居の実父母に任せきりで、話は随時聞いているものの、実質的なアプローチはあまり出来ておらず、という状態だった。仕事を終えた帰りの電車では最早ガス欠で本を読む気力も無かった3。そして、そんな中途半端な関わり方が望ましくないのは自明である。

しかし眼が開けた。長男の療育から科学研究の知的快楽が得られるし、得ても良いのだ。「くずれ」ではあるものの研究者の端くれ、即ちその知的快楽ジャンキーである身にとってこれは一種の福音であった。その快楽が得られると気付いた今ならいくらでも本が読めるし、現状認識・アプローチの仮説を立てて検証するのもまた快い知的刺激である。これは研究だ。一方で、その知的快楽ジャンキーであるというのが、研究者「ズレ」なのだという事も悟った。仮説を立てて上手くいかないと、普通はめげてしまうらしい。研究者くずれ的には、立てた仮説が上手くいかないなんて事は至極普通のこと4で、それならそれを踏まえてさっさと次の仮説立てましょ、という感覚である。その点でも、これは研究者くずれである私の役割だったのだ。妻にはとても申し訳ない事をしていた。

型はめを(どうにかして)通す

研究者くずれ視点だけでなく、少し教育的な事を齧っていた身としても刺さるところがある。

遍歴や、初学者に物事を教える時に考えている話題を書いた「感動」のエントリでも触れた通り、大学院生時代、学部新入生向けのプログラミング入門的な必修授業の教員をしていた。集団に対してプログラミングを教えていると、どうしても人によって理解の速度に差が出てくる。最初の説明一発だけで理解できる人はかなり稀で相当優秀。大体は練習問題を自分でプログラム書きながら考えることでだんだん何となく分かってくる。一方、それでも全く理解が追いつかず、具体的指示の多い練習問題については指示通りに進めて何とか終わらせるも、指示のほぼない実践的な練習問題になるとパタリと手の動きが止まってしまう、という人も相当数いる。

授業自体は対集団に行っているので、一番遅いペースに常に合わせていることはできない。なので、練習問題を解いている時間等で個別に様子を見てアドバイスしたり、場合によっては授業時間外に質問対応などしてフォローアップする。この個別対応で、いかに理解が詰まってしまっているポイントを打破させることができるかが教える側の手腕であると、当時から思っていたし、今でも思っている。私はそれを、感覚的には型はめパズルのように捉えている5。教員としてその時々において理解してほしいコンセプトが型はめパズルのピースである。そして、それを個々人の理解に落とし込ませることが、そのピースを型はめパズルの枠に通すことに対応する。

そう考えた時、この人の「枠」には何の抵抗もなくスッと通せたな、という場面だけでなく、何だかこの人の「枠」には上手く通せてないな、ということがある。そんなときはピースを回してみたり、知恵の輪的にこねくり回して、なんとか「枠」を通す方法を探すのである。現実的には、そのコンセプトを色々なアプローチから、手を替え品を替え説明するのである。また、一度はピースを通せなかった方法を何度か繰り返してみるのも、繰り返していると「枠」の方が押し広げられていくのか、往々にして有効である。しばらくやっていると、ああこの人の「枠」にはこういう通し方が当てはまりやすいんだな、なんてことも見えてくる。後は、プログラミングという題材故なのか自分には分からない世界だと言って最初から「枠」を手で覆い隠してしまう人もいるので、そういうときはその手を除けるアプローチも必要。6

いずれにせよ、そんなこんなで何とか通りにくい「枠」を通すことができたら、その時の快感は強烈といったらない7のである。「枠」を通そうとする試行錯誤の過程もまた面白いものである。どうすると「枠」を通せるのかという仮説を立てて実際に検証、ダメだったらまた考えるループ、という点で上述の科学研究の知的快楽と同根の感覚であろう。そしてその快楽は、長男の療育から得うるということだ。

「感動」と一般化障害仮説

さらには、教育の視点からもう一つ、まさに「感動」のエントリで述べたその「感動」に対する思索を深化させうる示唆を、長男が与えてくれるかもしれない。

件の本で著者の藤居氏は、「一般化障害仮説」という考え方を提唱したことを述べている。氏はこれを次のように説明している。

ところで、学問でも仕事でもそうだと思いますが、貪欲に知識を吸収しながら徹底的にのめりこんでいくと、やがて、ばらばらに見えていたさまざまなものが有機的につながってくる瞬間がやってきます。私自身にもそんな経験があり、そこから生まれた、自閉症についてのかなり規模の大きな考察である「一般化障害仮説」の記事に、ある日1通のメールが届きました。それは、中京大学心理学部の神谷栄治先生からでした。これがきっかけとなって、「一般化障害仮説」を中核に据えた、『自閉症 - 「からだ」と「せかい」をつなぐ新しい理解と療育』(藤居学・神谷栄治著、新曜社)という本を出すことができました。 --藤井学 お父さんもがんばる!「そらまめ式」自閉症療育 自閉症の子どもと家族の幸せプロジェクト ぶどう社

一般化障害仮説自体の説明は本書の中ではなされていないので、それが何を指しているのかは、まだ具体的には分からない。しかし、ここで述べられている、様々な物事が頭の中で有機的に繋がって理解されていく感覚は、件のエントリで私が述べた「感動」そのものである。そちらでも書いたが、その感動なくして様々な物事を理解しようとするのは辛い。例えばプログラミングにおいて、その感動なきままでいると、サンプルプログラムや詳しい指示がある練習問題ならば何とかなるが、実践的な練習問題には全く対応できないという、まさに先に例示した状況になりがちである。だから何とか、根底に横たわるコンセプト・考え方や、そのコンセプトを元に個々のプログラム例が出来上がっている美しい関係性を分かってもらうべく手を尽くすのである。その理解に至った人は総じて、自分の頭の中が明快に整理された事に対する小さな感動を受けた反応をする。

自閉症の話題に戻ると、長男が抱える困難にこの感動に至らないということが含まれるのなら、それに対するアプローチの考え方には、私が彼らに対して諸々試みたものが応用できるかもしれない。また逆に、その意味で長男を感動せしめる学びを与える事が出来たならば、それは自閉症療育の枠を飛び越えて、元より私の興味の一つである何かを教授するという事一般について、一つの解8を示してくれるかもしれない。

まずは藤居氏の提唱しているこの一般化障害仮説について、上掲の引用箇所で紹介されている同氏の著作を読み始めている。

息子を知的探究の対象にして良い?

以上のように、長男の療育に関わる事が、長男のためだけではなく、私自身の知的探求の欲求を充足する事に繋がり、さらには以前から抱えていた私自身の思索の道標たりうる事に気付いたのが、今回の読書の最大収穫であった。

冒頭で述べた通り息子らはとても可愛く大好きである。その長男を自分の知的探求の対象に据えるのは如何なものかという気はする。何というか、サイコパス的というか。とはいえ、長男が可愛い事に変わりはなく、そして長男は療育を必要としている。そして療育を続けるモチベーションが、長男への愛だけでなく、私自身の知的欲求にも下支えされているのは、悪い事ではない筈である。

と、思っておく事にする。ひとまず。


  1. 看護師だが、今は子育て・療育に注力するために働いていない。
  2. 朝の電車は爆睡であり帰りの電車のみ。帰りの電車は疲労感が強いものの、寝過ごしたらとんでもない場所まで行きかねないため怖くて寝れない。
  3. インプットの気力が尽きていたので、このブログをちまちまと書いたりしていた。
  4. そりゃあ少しはめげるけど。
  5. 喩えではなく、本当にそういう感覚である。
  6. 尚、そもそも学ぶ気がない人に教える、ということについては当時は全く関心がなかった。大学生ともなれば、自ら学ぶ意思を持って物事に取り組むのが基本姿勢でなければなるまい。大学教育に関しては今でもそう信じている。とはいえ、長男の自閉症療育においては、もちろんそういうわけにはいくまい。
  7. 故に、学生には気軽に質問に来て欲しいのだが、どうにも、理解が詰まっている人ほど質問に来ない傾向があった。理解が詰まっていることを本人が自覚していても、である。
  8. ただ一つの解、という訳ではなく、複数解を持つ問いに対する解の一つ、という位置付け。