このブログのエントリは、一応全て私が手ずから書いている。コンピュータを使っているのに「手ずから」とはどういう事か、という気もするが、昨今流行りの自動生成はしていないという意味である。誤植等が紛れている可能性は十分あり、その点はご容赦頂きたい。
尚、本エントリの前提として、特に断らない限り、これは日本語を母語とする私が日本語の文書について考えている事である。
入魂、というか魂が削れる
本エントリの表題「魂込めて書かんかい」は、前々回エントリ・前回エントリでちらっと出てきた、大学・大学院時代の私の指導教官の口癖の一つである。かのエントリはあまり良い印象を与えない内容になってしまっていたが、指導教官の事は尊敬もしているし感謝もしている1。その指導教官が、論文指導において良く言っていた言葉である。曰く、真剣に書かれていない=魂の込められていない文章は見れば分かり、そしてそれは実に印象2が悪い、と。これを初めて言われた頃はともかく、論文誌の査読委員をしたり、後輩や同僚の文章添削をしたりするようになった今は、理解できる感覚である。
自らが執筆する文章に対する愛、という感覚にも近しいかもしれない。愛を持つが故に、その文章が出来得る限り最上のものになるよう心血を注ぐのである。そうして文章、例えば一編の論文を書き上げると、かなり精神が磨耗している感がある。魂が削れている、とでも言うか。その点、自ら能動的に「魂を込める」事が出来ているという実感はあまり無いのだが、上述の「削れ落ちた」分の魂は、執筆した文章にしっかりと注ぎ込まれているに違いない。その自分的には珠玉の文章について添削・赤入れを依頼し、時にこてんぱんにされて帰ってきたりした日には結構めげる所もあるが、それでも、自分の文章3をより良いものに研ぎ澄ます過程と思えば建設的に受け入れられる。
このように、自らの意図・見解等を注ぎ込んだ、ある意味自分の半身とも呼ぶべき文章を美しく仕立てていく事は、物書きを生業とする者にとっては当然の事であると思う。大学院を離れた後の私も、学術論文こそ書いてはいないものの仕事の一部は物書きであり、大学・大学院時代に身に付けたこの感覚は役に立っている。尚、本エントリ冒頭でこのブログに紛れているかもしれない誤植について言及したが、仕事での物書きに関しては、自分からそんな予防線を張るようなクオリティで出すつもりはない4。このブログはあくまで余暇活動であり、そこまでの高クオリティは狙っていない。
魂の込め方が足りない文章
そんな事を考えて物書きをしたり、もしくは人の文章を読んだりしていると、世の中に愛なく仕立てられた文章の多い事、という気持ちになる。
誤字脱字や変換ミスに始まり、「てにをは」の誤り、主述の不一致、係り受けの不整合5、慣用表現の誤り等々、適当に書いていると日本語を母語としていても紛れてしまうミスはある。とはいえこれらは、書き上げた後に精読すれば大方発見できるものであって、眼力で紙に穴が開くくらい読み込むべしと思っている。もしくは、慣れてくれば書きながら同時に潰したり、そもそも発生を抑止したりする事もできる問題だと思う。いずれにせよ、自分の半身であるところの文章について、このような極めて初歩的かつしょうもない瑕疵を残したまま表に出すなどという事は許し難い。それをやってしまった時の感情は最早、自らに対する敗北感・屈辱感と言うに相応しい何かである。6
また、よりマクロな問題としては、客観的に見た時の論理・展開の飛躍や破綻がある。これは書いている本人からは気付きにくいものである。文章は筆者が持つ知識・情報を前提として書かれる。自分の中での前提というものは当たり前すぎる存在で、筆が乗っている時には特に、書いている文章の中から抜け落ちがちである。そうすると、書いている本人にとっては整合が取れていても、読み手にとっては飛躍や破綻を感じる文章が仕上がる。その点で、想定される読み手の視点から自分の文章を読み返すという事は重要であり、先入観排除のために自分以外の誰かに読んでもらうのも良い。その過程にかかる労力を惜しむべきではない。先の表現で言うなら、文章というものは書き手の半身なのだから、書き手の中にある前提も含め、読み手が欲する書き手の全てが投影されていなければならない。
そのような事を意識し続けて魂の込められた文章を書いていると、「味」とでも言うのか、書き手毎に固有の雰囲気が段々と出てくるように感じる。日本語の癖と言っても良いかもしれないが、それだけでも無いように思う。多分に定性的というか、感覚的な概念なので、明確に説明するのは難しいのだが、確かに何かがあると感じる。7
そもそも魂がない文章
その視点に立つと、「味」が入り混じって滅茶苦茶だったり、そもそも「味」を感じない文章も見かける。様々な元文章のコピペ・切り貼りによるものや、生成AIによる生成物などである。もっとも、生成AIのものに関しては、「生成AI味」を感じる事もあるが。以前のエントリで述べた「謎眼力」に近しい感覚かもしれない。
切り貼りして作られた文章は、雑なものであれば、一度見れば切り貼りである事が想像できる。「味」に統一感が無いのである。例えば、句読点の打ち方に「、。」式と「,.」式8が混ざっている文章を見た事がある。ここまで露骨だとすぐに、切り貼りして作ったんだなという疑いの上で当該文書を読むようになる。実際、その疑いは当たっている9事が多い。そこまで露骨でないにしても、複数の書き手の癖が妙に区切れよく混ざっている文章は時々見かけ、その手の文章は既存文章の切り貼りである事が多い。そのような文章に、書き手の半身である所の魂など宿っている筈がない。尚、上述の自分以外の誰かによる推敲の結果として文章の癖が混ざるという主張もあるかもしれないが、その誰かのコメントを無思考に反映するのではなく、自分の理解に落とし込んで受け入れれば、そうはならない。
さらには、今日日流行りの生成AIである。明らかに生成AIに書かせた結果そのまま、という文章が公開されているのに触れるにつけ、優れた技術であるにも関わらず、それに追い付けずに衰退する人類知性を見るようで暗澹たる気持ちになる。上記のコピペ切り貼りとは違って、書き手が混ざっているような違和感こそ無いものの、それでも何処となく感じられる魂の無さがある。あの空虚さがどこから来るものなのか、具体的に明文化する事はまだ出来ていないのだが、ただ空虚であるという感を受ける。整った言葉でまとまってはいるものの、書き手のものではない借りてきた言葉で出来ている感というか。その、文章として整っているのに魂が感じられないという不気味さが、私にとっては、先述の「生成AI味」として感じられるのかもしれない。
物書きの矜持は
少し前に、某小説投稿サイトで生成AIにより作成された作品がランキングを席巻した、というニュースを見た。1日に数十本の小説を投稿するユーザもいるとか。
世の中、別に魂が込められている必要などない文章、というものもあるだろうと思っている。議事録などはその典型例であろう。むしろ、下手に書き手の色を出すべきではない類のものである。そういった文章を生成AIにまとめさせる、というのは理にかなっていると思う。書き手の色を出せないにも関わらず手間だけはやたらとかかる議事録のような文章は人の作業から離してしまって、人はその分だけ別の作業をした方が良い。ただそれでも、少なくとも現状では生成AIの出力をそのまま鵜呑みには出来ないので、それを人目で確認する工程10が必要ではあるが。
一方で上掲の小説とか、もしくは書き手の名を出して対外公開される論文・論説とか、そういったものを生成AIに書かせるという感性は理解し難い。書き手の名が広く押し出される以上、その文章は上述の通り書き手の半身である。その半身を介して書き手の心理・論理・知識・理解・その他諸々、を伝えるのが物書きというものの矜持ではないのか。それを生成AIに任せてしまった時、例えその文章が何らかの成功につながったとしても、それは書き手の半身とは最早呼べまい。1日数十本の小説など、投稿者が個々の内容に目を通しているとはとても思えない。そのようなものは投稿者の半身ではない。
件の某小説投稿サイトのニュースの件については他にも思う事はある11が、まず第一に、生きるためという訳でもなかろうに物書きの矜持無しに物書きをするというのが、全く理解できないのである。この、魂の込められていない文章を量産するという事についても、もしくは、前半で述べたような魂の足りない文章を平気で出せるという事についても。
余談 ー 英文の魂
私は一応、英文もそれなりには書けるつもりではある。国際学会や海外論文誌に投稿したこともあるし。ただ、英文を読んだ時に魂の有無を見定める事が出来るほどには、英語に習熟していない。英語の母語話者から見たら、私の英文などは魂が込められていないと見えるのだろうか。
- 同時に恐れてもいる事は否定しないけれども。↩
- 指導教官の発言意図としては、査読者の印象。↩
- 私が初めて書いた一枚の予稿など、今になって初稿を見ると実に酷いもので、実際指導教官の赤入れによって真っ赤になって帰ってきた。ここまで来ると正直、自分の文章とは?という気持ちにならない事もない。↩
- それでもときたま誤植が入ってしまった事は、実績として存在するのだが。↩
- 連体句が用言に係っているとか、その逆とか。↩
- 仕事での物書き程のクオリティではないとはいえ、このブログにおいても、そのような時には自らへの敗北と屈辱を感じる。↩
- 私個人の話としては、「らしさ」ではあるけれど君の文章は硬すぎる、と言われる事多し。もう少し柔らかめに、という方向の修正をよく頂く。↩
- 工学分野で頻繁に見られる記法。↩
- 即ち、剽窃元が容易に見つかる。↩
- それが文責というものであろう。↩
- それはまた別エントリにまとめたい。↩