攻めた副題を持つ以下の応用行動分析=ABAの本、我が家における通称「飼いネコ本」を読んで考えている事、の続き。
本書に関する前のエントリは以下。 blog.kolmas.tech手を洗わせたい
最近の長男には、本来は自分で出来る事を自分からやらないという場面が目立つように思う。自分で出来る事が増えるのはまず第一に喜ばしい事であるが、そうしたら次には、その出来る事を、必要な場面で自分から出来るようにならなければならない。
例えば手洗いがそうである。単に出来るか出来ないかだけで言えば、手を洗ってタオルで拭くまで、ほとんど補助なしでも概ね出来る。完全に任せるとかなり雑なので、実際には脇にいて手伝っているが。ただ、手を洗うべき場面で自分から手を洗いに行く、という点についてはまだ不十分である。手を洗わねばならないという事を分かっていても、である。例えば外出から帰宅して靴を脱いだ後に「靴を脱いだら次は何する?」と問い掛ければ、回答を得るまで根気が必要な時もあるものの、ちゃんと「手を洗う」と答えられる。ただ、そう答えさせた上であったとしても、素直には手を洗いに行かない事が多々ある。「ママと手を洗う」と言って妻を探しに行き、その後実際に妻の手伝いで手を洗っていればまだ良い方である。妻を探しに行った過程で部屋の中のものに気を取られて遊び出したり、そもそも手を洗うという事に意識が全く向かずにその辺で遊び出したりする。最終的には私か妻かが、手を洗いに行くぞと言いながら洗面台に引き連れて行って、手を洗わせる。
しかもこれが、どこでもそんな様子なのかといえば、そうでもない。長男の療育においてはいくつかの療育施設に通っているが、そのうち一箇所、二週に一度の頻度で通っているところがある。家から電車+徒歩で片道二時間以上かかる場所にあり、三男が生まれたこともあって妻が同伴出来ないので、休暇を取って私と父1とで連れて行っている。到着したら当然ここでも靴を脱ぐわけだが、その後の「靴を脱いだら次は何する?」の問いにはすぐ「手を洗う」と答え、その後実際に洗面所に向かい、やはり手伝い付きではあるが素直に手を洗う。これは家での振る舞いと全く異なる。
そこの療育の先生にもこの話題は話していて、曰く、療育の場面では児の気を引くものを意図して少なくして気が散りにくいようにしていて、その影響もあるのではないかとの事だった。それは同意できる説明である。家には長男の気を引くものが多すぎる。かといって家は療育施設ではなく生活の場なので、それらを減らすことは易々とは出来ないが。
服を自分で脱がせたい
似たような話で、風呂に入れる時に服を脱がせる、という話題もある。長男において服の着脱それ自体は、少し手伝いが必要だがある程度は自力で出来る、程度の難しさである。自力で出来ないポイント、典型的には上着の袖から腕を抜く段階等においては「手伝って」と言わせる練習を妻がしている。
これまた、概ね出来るにも関わらず長男自身からはなかなかやらない行動の例である。風呂場の中には長男の気を引くものが様々にあり、服も脱がずに風呂場に入って行ったりする。脱衣所に連れ出して服を脱ぐように言うと、すぐに取り組み始める場合もあるが、全然取り組み始めないこともある。その場で寝転んだり、また風呂場の中に入って行ったりする。尚、一度取り組み始めれば、ズボンとパンツはすんなり脱ぐ。ただし上着は自分では脱ごうとしない。上着を脱ぐ事がまだ難しめの行動である、という事があるのだろう。こちらで片手の袖を掴んでおいてやれば後はすぐに脱げるのだが、上述の通り「手伝って」と言う事はまだ練習中でしっかり身に付いているとはいえないし、自分自身で袖を掴んでその袖から腕を抜く事も練習中2である。だから、上着を脱ぐ段階で止まってしまうのはまだ分かる。とはいえ、ズボンとパンツは簡単に脱げるようになっているのだから、それは自分から脱いでくれ、という気持ちにはなる。
これもまた、服を脱ぐべき全てのシチュエーションで同様という訳ではない。典型的にはトイレである。長男のトイレトレーニング自体は最近になって急激に進展し、昼間はオムツなし・布パンツで過ごせている。楽しい事があるとトイレに行きたそうにしていながら我慢し続けている節があり、こちらからトイレを提案してやらないとならないが、自分からトイレに行く事を主張する場面も出てきた。いずれにせよ親を引き連れて、もしくは親に引き連れられてトイレに行く訳だが、そうすると、何を言わなくても自らズボンとパンツを脱ぎ3、便座に座るのである。自律的に脱げてるじゃないの、と思う。
刺激制御・弁別刺激
長男は「手を洗う」という行動自体は習得している。「服を脱ぐ」事も、一部手助けは要るが、概ね出来る。それらの行動をすべきタイミングであったり、するように言われたときに、しない、という事が問題である。これらの課題は、件の本で説明されている内容を鑑みると、刺激制御が上手く成立していないと説明できるだろうか。
件の本によれば、何らかの行動のきっかけになる刺激を「弁別刺激」と呼び、その上で以下のような状態にある事をその行動が「刺激制御」されていると呼ぶとのことである。
- 弁別刺激が与えられたときに、対応する行動が起こる。
- その弁別刺激が与えられたときに、それとは別の行動が起こらない。
- その弁別刺激が与えられていないときに、その行動が起こらない。
- その弁別刺激以外の刺激が与えられたときに、その行動が起こらない。
帰宅時の手洗いの場面で言えば、「手を洗う」という行動を引き起こす弁別刺激が成立していない、という事になるか。「靴を脱いだ」という事が、「手を洗う」行動の弁別刺激になっているのが望ましいのだろうか。少なくとも「手を洗いな、と言われた」刺激には反応してほしくはある。一方で、そうする必要もないのにやたらと手を洗うのも問題4である。風呂前に服を脱ぐことについては、そのための弁別刺激は何であるのが良いか。「脱衣所に来た」?「風呂入るよ、と言われた」?トイレの場面に関しては、「トイレに来た」という刺激が「ズボンとパンツを脱ぐ」行動の弁別刺激として成立しているということだろうか。もちろん、必要のない場面で服を脱ぎ出すようでは困る5のは当たり前である。
新たな弁別刺激を成立させることも含め、対象がこれまでする事が無かった行動を新たに身につけさせる方法論として、件の本では「シェイピング」という手法を説明している。これについてはまた別途書きたい。
好子の予告
ここにきて気になるのは、何かを子供にさせる時に「〜〜したら〇〇」といった形で好子を予告する事である。〇〇の部分には、例えば長男の場合には電車動画が入ったりする。
これを刺激制御の観点のみから見ると、行動を発生させるための刺激に余計なものが混ざってしまっているようにも思える。「靴を脱いだ」もしくは「手を洗いな、と言われた」ら「手を洗う」ようにしていきたいのであって、「手を洗ったら動画だよ、と言われた」事を弁別刺激としたい訳ではない。弁別刺激だけであれば、件の本でも説明されているように段々と小さくしていけば=フェイディングしていけば良いとも思うが、最近、「手を洗いな、と言われた」ら「動画を見る事をゴネる」ようになってきた。こうなると最早別の何かを強化してしまっている。つまり、ゴネれば動画が見れる→ゴネる事の強化である。
ゴネる事を強化させないためには、それに対して好子を与える事=ここでは動画を見せる事、を避ければ良い。ただし、これは徹底しないと逆効果である。ゴネた時に最終的に好子が与えられるたり与えられなかったりすると、それはゴネる事に対する変動強化であり、それをより強く強化する事になる。とはいえ生活の中で、ゴネてどうにもならない長男の行動を進ませるために動画を見せたくなってしまうのはある程度避けられない所もある。となれば、ゴネるという行動がそもそも出にくくなるように場面を設計していくしかない。
その点において、好子の予告は扱いが難しいように思う。好子を予告すると、確かにその次の行動に移らせやすいが、その状態から抜け出しにくいように感じる。実際、上述のように長男がゴネる。その上で、予告してしまっている以上は行動後に好子を与えないのは裏切りであるから、行動に対して毎回好子が与えられる連続強化になる。そこから部分強化に移行していく事が難しい6。そのために、本来強化したい筈の、必要な場面で必要な行動を起こす事に対する強化が進みづらくなるように思う。
ただ、起きた行動を強化するABA的手法においては、まずは対象の行動を起こさせなければしょうがない。その、まず行動を起こさせる、という事について好子の予告が効果的なのも事実である。もうこうなると、匙加減の問題という、まさに最も扱いが難しい領域に至る。
段取り理解と刺激制御
ところで、ここで刺激制御の話題に戻ると、そもそも刺激制御でこのような場面を全て説明できるのかについて、ここまで書いてきて疑問に思う節もある。
我々は外から帰ってきたら手を洗うし、風呂の前には服を脱ぐ。そうしなければならないと分かっているからである。ただ、帰ってきて靴を脱いだらすぐに手を洗うか、というと、そうである時もあるし、そうでない時もある。例えば車に買い出しの荷物を積んでいる時には、まず先に冷蔵庫前と車を何往復かして荷物を全部家に取り込んでしまう。この一定程度可変な振る舞いは、刺激制御で説明出来ないように思える。
長男を通わせている療育施設の一つ7での取り組みの中に、段取りを付けて活動する、というものがある。具体的には、五種類程度の取り組みを順に行うというもので、それぞれの取り組みに必要なものが①〜⑤の表示のあるカゴに入っていて、順に取っていくのである。最後に取り組む⑤の箱には、長男の好きな玩具が入っていて、一連の取り組みのご褒美的な扱いになっている。これも、刺激制御という感じはしない形式である。箱の中身と順序は毎回違っていて、固定的な刺激により行動を誘発するという考え方は当てはまらない。この取り組みが目指すのは、与えられた段取りを見通し付けて遂行できるようになる事であって、固定的な玩具を固定的な順序で取って遊ぶ事を強化しても仕方がない。
刺激制御と、この段取り理解の話題を比べると、弁別刺激による行動の誘発は多分に機械的で、その一方で段取りには行動に対する本質的な理解が必要であるように感じられる。我々は、家に帰ってきたら手を洗わなければならないという段取りの必要性を理解している。それ故、時にはその必要性を満たす範囲で行動の順序を入れ替えたりも出来る。これに対して、弁別刺激と対応する行動の意味的繋がりを理解させなくても、刺激制御自体は成立させられる。これは簡単である一方で、固定的で応用は効かないものだろう。
療育の先生に、手を洗う等の生活上必要な動作は、固定的なルーティンにしてしまうのも良いというアドバイスを頂いた。上述の考え方に当てはめれば、これは段取り理解が必要な課題を、刺激制御でなんとかなる領域に近づけて簡易化するもの、と言えるかもしれない。
段取り理解と好子の予告
この段取り理解の話題は、好子の予告の件とも絡めて考えられる。即ち、上述の⑤の箱に入っている長男の好きな玩具は、長男にとって好子であり、その存在は段取りの最後にあるものとして予告されている。
この⑤の箱の玩具が何を強化する事を狙っているのかといえば、勿論、段取りに従ってそれまでの取り組みを遂行する事、ではある。加えて、長時間の取り組みに集中している事が難しい長男のモチベーションを続かせる効果もあると思う。とはいえ、やはり長男は取り組みの途中で集中が切れ、その⑤の玩具に手を出そうとする。その時先生は、「これは⑤番である」事と「今は〜番である」という事を長男に伝え、⑤の玩具には手を出させない。ゴネてもどうにもならない、という事が徹底されている。
この様子も見て思うに、好子の予告がゴネを誘発するのはどうしようもないらしい。となれば、療育施設ほど徹底した環境調整が出来ない家庭環境においては、好子の予告を使うのは、余程難しい事に取り組ませる場面に限定した方が良さそうに思える。そもそも行動を強化する力は、予期せず与えられる好子の方が強いのだし。その事も踏まえて、必ずやらせなければならない日常動作的なものは、まずは固定的ルーティンに落とす=刺激制御でなんとかなる領域に近づける事で、簡単な課題にしてしまった方が良いのだろう。
何を強化して(しまって)いるのか
諸々考えて結局は、何を強化しているのか、あるいは何を強化してしまっているのかを意識し続ける必要性、という以前のエントリと同じ結びに至る。我々が強化したいのはゴネる事ではなく、必要な時に適切な行動を起こせる事である。それを狙って強化する枠組みが必要で、その枠組みを設計する妙技を身につけねばならぬ。無論、設計したら実践しなければならない事は言うまでもない。
実践の過半が妻任せになってしまっている事が、私の罪であり、妻に申し訳ない所であるよなと、改めて思う。側で小言を言っているだけ、の構図でしかない。。。
余談 ー 弁別刺激とプロンプト
件の本の刺激制御周りの記述は、別に読んでいて分かりにくいというわけではない8のだが、少し解釈に自信が無い感もある。最も大きなモヤモヤ感は、弁別刺激とプロンプトに類似性が感じられる事である。フェイディングという言葉・概念を適用する事も同じだし。これらは同じ概念なのか、違う概念なのか?
- 長男からしたら祖父。子供がいる生活全般に関して、持つべきものは退職した両親、とは常に思う。そうでなければ私は今のような働き方はとても出来ない。↩
- 練習させているが、まだ難しそうではある。袖を掴んだ手が、腕を抜こうとするときにすぐ離れてしまうのが難点。指先の力が足りないのか、力を入れにくい姿勢なのか、はたまた集中力の持続の問題なのか。↩
- よくよく考えてみれば、下半身の服を脱ぐ機会は上半身の服を脱ぐ機会よりも余程多い、つまり練習の機会が多い、ということもある。↩
- この季節にそんな事をしていたら手が荒れる。↩
- 幸いにして長男にその様子はない。↩
- そも、ランダムであるという事の本質は予測できないという事である以上、予告された好子は部分強化に繋がりえないのでは、とも思う。↩
- 上述の、二週間に一度の頻度で行っている所。↩
- むしろ、読み物としてかなり読みやすい部類の本だとすら思う。↩
