kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

「100%」か「報連相」か

それらを相反するものとして語るな、という声が聞こえて来そうだが、私のような不器用な人間には、その両立には難しさを伴う事がある。主語が大き過ぎるだろうか。

「お前の100%を持ってこい」

章題は、これもまた大学・大学院時代の指導教官の口癖である。それは論文指導の文脈であった。

私の初めての論文、といっても実際は信学会1の大会の予稿で分量もたかだか一枚ペラではあるが、少なくとも私にとって初めての学会発表であったもの、は、私が学部生だった頃の作である。その初稿は今の私の基準で見たら、まあ目も当てられない酷い出来であった。指導教官によってコテンパンに直され、最早私の作と称して良いのかも甚だ疑問だが、それでも、それが私の初めての学会発表であった。赤入れ、の文字通りに真っ赤に染まった2その初稿は、記念にそのままの形で保存してある。

その初稿を指導教官に初めて持って行った時、その中身を見られる前に聞かれたのが、「これは君にとって何%の出来か」であった。私は、指導教官が満足する仕上がりに出来ている自信は無かったので、80%位でしょうかと答えた。それに対し、自分で100%の出来と言えるものを持ってこいと突き返された訳である。一旦持ち帰って再度見直し、とはいえ当時の自分ではそれ以上に直す点は見つからず、改めて自分としては100%のつもりで持って行った。その結果、上述の通りコテンパンに赤が入ったのだから、まあ凹むところではある。以前のエントリにも書いた通り、今から思えば物書きというのはそういうものであるが。

この「お前の100%を持ってこい」というのは道理にかなっている。学生等よりもはるかに多忙である指導教官の時間を取って何かを見てもらう訳だから、その「何か」からは、少なくとも自らの目で見つけられる問題点は予め全て取り除いておくべき、というのは筋が通っている。今も、文章なりプレゼン資料なり、何らかの制作物を上長に確認してもらう際には、その仕上がりを「自分の100%」にしてから持っていくという事は意識している。

「相談する時は自分の意見を述べろ」

この章題もまた指導教官の口癖であった。漫然とどうすれば良いのか聞くのではなく、自分でどうすべきか考えて、それを元に意見を求めよと。

これを初めて言われた時がどのような場面であったかは良く覚えていない。自分の研究ネタに関する相談であったのか、研究室の運営に関する何かだったのか、参加するイベントか何かだったのか、後輩の指導についてであったのか。今から振り返ればどれも相談した事がある話題である。いずれにせよ、「どうしたら良いでしょうか」と相談したのに対してこれを初めて言われ、いやそれが考えつかないから相談しに行ったのよとは思いつつもその場は引き下がり、改めてどうすれば良いかしばらく考えあぐね、何とか絞り出した案を持って再度相談に行き、それにダメ出しをされて凹みながら、その頂いたダメ出しと対案を基に実際に行動に移す、という事をした記憶がある。

その「相談する時は自分の意見を述べろ」ファーストコンタクト以降、指導教官に何か相談する時はかなり気を遣うようになった。まず漫然とした聞き方をしないよう、出来るだけ自分の案がある状態に持って行ってから相談する。どうしても手詰まりで何も案が浮かばない事を相談しなければならない時は、相談のタイミングを窺うようになった。軽めな会話の中3で「どうしたもんですかねー」と自然に紛れ込ませられるタイミングを狙うのだ。このタイミング窺いについては、自分でも非生産的な事をしているなという自覚はあった。

否定的に書いているように見えてしまうだろうが、この「相談する時は自分の意見を述べろ」というのも実に正しい。見習い・端くれとはいえ研究者という創造性を求められる立場にあって、何でもかんでも人に聞いて解決しようとする姿勢では仕方がない。自分で考えなければならないし、何でも聞いて解決していてはその自分で考える能力が伸びない。それを訓練するには、実際にそれをするしかないのであって、筋の通ったアプローチであると思う。

こまめな報連相

報連相=報告・連絡・相談をこまめにすべしというのは、指導教官に言われていたことでもあるが、それ以前に世間一般に当然のように浸透している事でもある。その正しさを今更振り返る必要も無いだろうし、私個人としてもその正しさに疑いを挟み込む余地はない。

三つが揃うと何が起こるか

このそれぞれに正しさのある「お前の100%を持ってこい」「相談する時は自分の意見を述べろ」「こまめな報連相」が揃うとどうなるか。きっと、世間の大多数の人には何の影響もないのだ。どれも全く間違ったことは言っていないし、世間に受け入れられている考え方だろうから。ただ、私はこれら全てを両立する事が出来なくなって、止まってしまった。

「100%」の要求は、字面上は勿論こちら視点での100%ではあるが、その言葉が出るという事は即ち、指導教官からしてこんな低クオリティのものを持ってくるな、という意識はあるだろう。「自分の意見」を述べるにしても、それが指導教官の考えている方針と一致しない時には不機嫌になる感じはあった。指導教官からしたら、しっかり考えればこの案に行き着くだろうという何かがあったのだろうか。「正解を答えようとしないで良い」とは言われたが、でもこちらとしては不機嫌にはなられたくない訳で。しかしその一方で、報連相をしっかりしてくれという苦言も呈される。

研究室活動に行き詰まっていた時に、報連相をしっかりやってくれと言われても、100%ではない報告も連絡も出来ない。さりとて相談をしようにも、100%の案を作れる訳でもなく、それも出来ない。でも相談出来ねば行き詰まったまま。しかしそうして険悪気味になった空気の中では、緩めの相談を紛れ込ませる隙も見当たらない。そうしたら、もうどうしようもない。研究室には行きづらくなり、そして病み、最終的には折れて研究室を去った。

私にとってこの状況はダブルバインドそのものであった。満たされるべき命題が三つあるという点ではトリプルか。別に研究室の全学生が病んでいた訳ではない4ので、私の特質に問題というか、指導教官のスタイルに適合しない部分があったのだろう。指導教官の事は尊敬しているし感謝もしている。そもそも上述の通り、これら三つの命題はそれぞれに正しい。

心理的安全性

現職ではずっと最も下のポジションで、今年度初めて一つ上の職位に上がったところである。そうしたら、管理職になった訳でも無く直接の部下が出来たわけでもないのに5、管理職向け研修のビデオを見る事になった。その中で、心理的安全性という言葉を知った。

かの研究室、客観的に見ても心理的安全性の確保された場ではなかったとは思う。私以外にも、学生が研究室の中で叱責されているという場面は色々あって、その度に、空間の温度が下がるなぁと、居た堪れない気持ちになっていた。とはいえ、心理的安全性は場を作る側が意識すべき観念であって、その場に属する下側の人間が要求するのは日本人的奥ゆかしさに反する。というか、その要求を出来るような雰囲気が場にあるなら、それはそもそもそうする必要がない、心理的安全性の確保された場であろう。

繰り返しであるが、研究室の学生の全てが病んでいた訳ではない。それも踏まえて、心理的安全性の確保にリソースを振らず、その場に追従出来ない私のような者を振り落として残った者で組織を回すという考え方にも、一定の合理性は6ある。それが自分に合わないと思うなら、さっさと見切りを付けてその場を去る方が相互に幸せになれる。そこで変に粘っていると、それこそ私のように7病む事になる。

仮に私が部下を持つような立場になったとして、その時の私はどのような場を作るのだろうか。

余談 ー やはり精神的自傷

このエントリを書き始めてから、久々に研究室時代の悪夢を見た。これもまた精神的な自傷行為であったらしい。それでも、唐突に書きたくなってしまったので仕方がないけれど。また、今回の悪夢に関しては海外出張帰りで時差ボケが抜けきっていなかった事も恐らく影響がある。


  1. 電子情報通信学会の俗な略称。なんとなく神学っぽいイメージを与える略だが、中身はコテコテの工学分野。
  2. Wordの修正履歴機能を使ったもの。少なくともWordのデフォルト設定においては、一人目の修正履歴は赤色で表示される。
  3. 学食で食事中とか、その帰り道とかが当時の私にとっては狙い目であった。今から振り返れば、そんなタイミングで相談を振られる指導教官の側としては、たまったものではなかったのではないかとは思う。
  4. と思う。私以外にも病んだ学生はいたけど。
  5. 更に言えば、普段の業務で時間に隙間が無い程に忙しいというのに。
  6. それが今日の社会で周囲からどのような評価を受けうるか、という観点を除外すれば。
  7. 以前のエントリで引用した「寿司 虚空編」の「メの字」の台詞のように、周りが何も見えなくなっていた。