kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

人類知性とコンピュータ:SNSは人には早すぎる?

チ。の感想エントリ三件目で、人類知性が技術発展や社会変革に適応していくための過渡期について言及した。過渡期においては、その発展・変革が人類に負の影響を与える事もあり得る。最近の技術発展が加速する状況において、その負の振れ幅も大きくなっていて、油断しているとふとした拍子に人類文明を滅ぼしかねない。故に、人はそうなる事を抑止する事を常に意識していなければならない。

ここでいう下手したら人類文明を滅ぼしかねない何かの一つとして、SNSが挙げられる、ということをここ最近ずっと考えている。

SNS遍歴

一応、まずはこのエントリを書いている私自身のSNS遍歴をまとめておく。意図的に距離を置いている節があるので、少なめではある。

  • mixi最早よく覚えていないが、高校生の頃にやっていた。そこまでのめり込んでいた訳ではないが、少しは日記なども書いていたか。下記のTwitter利用開始に合わせてほとんど見ることもなくなり、具体的な時期は覚えていないが、そのうちにアカウントを消した。
  • Twitter(現X)12009年、大学研究室の仲間内で流行っていた所からアカウントを作る。その当時から今に至るまで、フォロー・フォロワー範囲はほぼリアル知人のみ。所謂「ツイ廃」な知人には全く及ばないが、かつては多少発信していた。ただ、そのうちに発信する事への敷居が高くなってきて億劫になり、ほぼ見るだけになる。そして今やログインすらしていない。今やこれしかコンタクト手段がない知人がいるのでアカウントを消すまではしていないが、ログインしていないのであまり意味はない。
  • FacebookTwitterと同時期にアカウント作成。こちらも繋がっていた範囲はリアル知人のみ。Twitterと違ってこちらは当初から見るだけ。こちらもアカウントを持っておく事すら億劫に感じてきて、2022年にアカウントを消した。
  • SNSに数えられるか否かは微妙なラインだが、グループチャット系のアプリは仕事以外でもいくらか使っている。通知は全て切っており、見る頻度は極めて低い。

多分、同世代の人間の中ではSNSをほぼ使っていない方に分類されるのだろうと思う。どれも最終的に、自分の発信が周囲にどのように解釈され、良し悪し問わずどのような反応を起こしうるか、という事を考え出して面倒臭くなってきたのである。

人間、居心地良さを求めがち

少なくとも私は、心地よい対人関係の中で生きていたいと思っている。もしくは、対人関係における無用な対立を避けたい、とも言える。対立にはエネルギーが必要であるからである。勿論、社会生活を送る上でどうしても発生する対立はあり、それを否定する意図はない。私も、自身の信念がある事について対立があった時に、一方的に折れるつもりはない。これは必ずしも相手を言い負かす事を目指すものではなく、場合によっては議論を通じて自身の信念が変化し、より洗練される事も含む。そのような議論もエネルギーを要するものであるが、全て避ける事は出来ない。

ただ、社会生活上必須でないものに対してまで、そのようなエネルギーを投じようとは思わない。少なくとも私は仕事に関連してSNSを使っていたわけではないので、それらが無くても私の生活は破綻しない。そんな場で対立的な対人関係など持ちたくない。各種SNSにおける私の繋がり範囲は上述の通りリアル知人のみであり、それぞれに多様な考え方を持っている人が入り混じる場2であった。その場にあって、余暇活動であるSNSに於いてまで対人関係のエネルギーを使うのは下策である。大事な事は直接話せば良いのだし。そんな訳で、後は上述の通り、段々と発信が億劫になってSNSから遠のいていった。

私のような引き籠り的アプローチであるか否かはともかくとして、対人関係における無用な対立がない方が居心地が良い、という事それ自体については一定程度同意が得られるのではないかと思う。その上で、私のように知人に閉じた使い方ではなく、不特定多数にネットワークを広げる方向性を指向してSNSを使い始める3と、自然と、近しい信念を持つ集団のネットワークが形成される。するとその「信念」は集団の中でより増幅・先鋭化されていく。エコーチェンバー現象というやつである。 ja.wikipedia.org

敵を作ると分かりやすい

大衆を動かしたいと考える人や組織が、この特性を活用しない訳がない。さらに、この時になされがちなのが、その集団に共通の敵を定義してやる事である。何であっても、何かその集団内で共通に糾弾できる敵があるというのは、その集団に属する人にとって極めて分かりやすい。人は分かりやすいものを求める。分かりやすい結論に安住していられるのは、それもまた居心地の良いものである。また、自身の攻撃性を外に発するという事も、残念ながら多くの人にとって快感なのだと思われる。

この、敵を定義してやるという事に、さらに先述のエコーチェンバー現象による個々人の信念の増幅が合わさると極めてタチが悪い。それは人の攻撃性をも増幅する。それが集団全体として、ある種の狂信的思想にまで至ると、元々「無用な対立がない」方が良かったのが、その集団に対する敵との対立は最早無用のものではなくなってしまうのだろう。具体的な例としては、某国某氏の支持者が議事堂に突っ込んだ事件は記憶に新しい。横から見ていたら信じ難いものだが、現にそういう事は起きてしまっている。まあ、件の某国某氏は、ここまで述べた手法を良く心得ている部類であろう。 ja.wikipedia.org

議事堂に突っ込んだ人々にしても、その行為自体が触法行為である事は理解しているのだとは思う。しかしそれを上回る「彼らの」正義によってその行為が正当化されていて、それに衝き動かされているのだろう。正義というのは一義的なものではなく、個人によって、時代によって、文化によって、等々、様々に異なる。故に、正義感が対立を生む事は極自然である。しかし、上述の中でも使った言葉だが、正義感だけで実際にここまでの事をしでかしてしまうとしたら、それは最早狂信の域である。

ドラえもんの台詞、「どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ。」は至言と言えよう。本エントリ冒頭で触れたチ。には、第三部のヨレンタとドゥラカの対話の中で「権威の中で生じる思考停止」というフレーズが出てくる。

隠れた「民意」はろくなものではない

節題が誤解を招かないように念の為まずここで断っておくが、私に民主主義を否定する意図はない。

ここで新たに別の視点を導入したい。SNSが持つ匿名性についてである。無論、実名でSNSを利用している人もいるし、そうでないにしても、所謂一般的なSNSにおいて、真に匿名での発信は出来ない。ここでの匿名とは、発信者が自身の現実世界における社会生活と切り離された立場で発信している4状態を指すことにする。これが上述の特性に更に加わると、また更にタチの悪い事になる。

捻くれた見方かもしれないが、人間誰しも、口にはしないが気に食わない事の一つ二つあるものだと思う。人は聖人ではないのだから、これは仕方がない。その一方で、気に食わない事があれども口にしない理由は様々に考えられるが、究極的には自身の社会生活に不都合をきたすからだろう。これを書いている私もまた、社会生活の中で不満に思っている事はある。不満に思う事は自由である。ただその不満を実際に口に出したり、その原因を排除するような行動をする事は、私の中にある社会通念上の常識に反する、即ち社会生活を円滑に保つための方法論から逸脱する事であるから、しない。軋みのない社会はコモンセンスで成り立っている。

その点、匿名で発信できると思い込むと、社会のくびきから解き放たれ、何でも好きなように発信するようになりがち5であるように見える。そうすると、そのような不満の中には、案外多くの人が共通に持っているものがある事が見えてくる。そうなれば後は上述の通り、その集団の中で当該不満感情の増幅待ったなしである。不満というのは敵の定義が分かりやすいのもあって、共有されればその増幅は速かろう。そうなれば、いずれ当該不満はその集団における絶対的な思想になる。

ここで述べたような、表では言わないけれど多くの人が共通に持っている不満、というのは、ある意味で「民意」なのだろう。SNSには、この「隠れた民意」を強力に可視化する特性があるとも言える。ただそれは、可視化された「民意」としての立場を得る前の個人の思想として発信するのは憚られるようなものだった訳だ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な、ろくでもなさがある。大体、大っぴらに言えるような正当性なく敵を定義するような「民意」が望ましいものだとは思えない。最近の諸々の言説において最早陳腐な表現だが、それは社会の分断である。

英雄を危険視する

その一方で、そのような「民意」を拾う事で支持を集めるのが所謂ポピュリスト傾向のある政治家、という事である。ある意味、彼らは「民意」に忠実である。故にその集団からの支持は容易に得られる。その「民意」における敵と対峙する立場を取る彼等は、正にその集団にとって英雄と言えよう。

私は個人的な信条として、政治家にその意味での英雄性を求めてはならないと考えている。そもそも上述の通りそのような英雄は支持を集めやすいし、支持する側も英雄に縋っていればそれ以上の思考を放棄出来るから楽である。それでも、いやむしろ、それ故に、その英雄性は危険である。その傾向を持つ政治家からは距離を置くべきだ。ヒトラーが政治権力を得た背景には「民意」の支持もあった事を忘れてはならない。

その点で、元々表出しているものであろうと「隠れていた」ものであろうと、ただ唯唯諾諾と「民意」に従うだけの姿勢は政治家には望ましくないと思っている。「民意」を無視して良いという意味ではない。「民意」を踏まえながらもそれにおもねる事なく、政治意思を自ずから立てて持っているべきなのである。彼等は、「民意」をそのまま代弁する英雄ではない。そして我々は、そのような政治家連中の中から、最も望ましいと考えられる者を選挙で選ぶのである。これは政治家の側にとっても我々の側にとっても、しっかり物事を考えなければならないという点で負担は大きい。しかし、民主主義的手続きによる社会を健全に保つには必要なことと思う。

尚、余談の域ではあるが、上述と同じ考えにより「庶民感覚」なるものを政治家に求めるのも反対である。政治家というものは、一介の庶民の感覚の中で知覚できる範囲を超えて物事を考えなければならない筈である。一般的な家計の話題等で頓珍漢な事を言って批判される政治家が時々いるが、庶民感覚が無いという事で批判するのは筋違いだと思う。彼等は、様々な国民の経済状況の幅広な実態という、感覚でも何でもない純然たる事実を知らない無知、あるいは知ろうとしなかった怠慢・傲慢により非難されるべきなのだ。

万人が発信する時代にあって

最後は若干SNSの話題から逸れた。実際、このような事は、ヒトラーを例示した通り、別にSNSが登場する以前からあった事である。しかし、SNSの普及に伴いあらゆる人が気軽に発信出来るようになった事が、人の負感情をより高速に拡散・増幅し、社会の分断をより勢いづけている事は否定できまい。上掲の議事堂襲撃の事案などまさにその一例で、実際に暴力の発生まで至ってしまっている。そして、その負感情を糧に支持を伸ばす政治勢力もある。その点、SNSが直接人類文明を滅ぼす訳では無いけれども、その引き金を引きうるポテンシャルは十二分に持っていると思っている。

いつか見かけたNHKの番組の中で、誰の言葉だったか6、一人の英雄より多数の常識、なんて事を言っていた。深夜だったのでその番組を観るのは早々にやめて寝てしまったが、その言葉だけは印象に残っている。常識、という点もポイントであろう。この部分を良識や良心等の言葉で読み替えても良いと思う。周囲に迎合するでもなく、かといって自分の欲ばかりに忠実な訳でもなく、より良い世界がどうあるべきかを各人が考えるという事が求められる。

そしてこれはとても難しいのである。人は弱く、上述のように楽な方向に流されがちで、SNSはその方向性を助長する。そもそも、SNSであらゆる人が発信する情報過多の時代において、人の情報処理能力の限界なんてそんなものだろうとすら思える。安易な分断、対立に陥らずにこの情報過多の時代を進むには、人の情報処理能力なのか、リテラシーなのか、はたまた信念なのか、他の何かなのか、またはそれらの全てなのか、つまりは知性がより高次のものにならなければならないのではないか。解脱とすら言えるかもしれない。それなしには、SNSの特性は人にとって劇物ではないかと思う。

そうは言ってもSNSは既に存在していて、その存在を否定する事は出来ない。せめて、このような事を意識して使わなければなるまい。とはいえ、私とて偉そうな事を言えるような身ではない。上掲の通り、私はSNSに疲れて意図的に距離を置いている人間であるので。


  1. イーロン・マスクに対して思う事がない訳ではないが、ここではそれは意識せずただ単純に、良く使っていた時期にはまだTwitterであったのでその名称を主に、現行の名称のXを副に置いている。
  2. それ自体はとても良い事だった。多様な考え方のるつぼであった大学時代の人付き合いがなければ、私は今以上に偏屈な人間になっていたに違いない。
  3. その方が今時普通のSNSの使い方なのだろう。
  4. 切り離された「と思い込んでいる」立場で発信している、という方が正確か。
  5. ここでの論点からは外れるが、所謂バカッター騒ぎなどが象徴的である。
  6. 後から調べてみると、濱口雄幸元首相の言葉らしい?