リチャード・ハミング博士は、コンピュータ屋の界隈では情報理論・符号理論に関する偉人として知られている。氏の成果の有名どころとしては、ハミング符号、ハミング距離、ハミング窓関数等が挙げられる。 ja.wikipedia.org
氏の講演"You and your research."の講演録を初めて読んだのは大学学部生の頃だった。当時は、研究室での活動が純粋に楽しくて、丁度初めての国際学会発表をしていた頃で、その時に読んだこの講演録には只々格好良さと「こうありたい」という憧れを感じるばかりだった。その後大学院に進学し、その中で心が折れ、今は学術研究から離れた世界で仕事をしている身として、改めて同講演録を読んで思うことをつらつらと書いてみる。今になってこれを読むのは、何と言うか、精神的な意味で一種の自傷行為であったようにも思うが。
講演録の原典は以下で公開されている。 www.cs.virginia.edu 日本語訳も様々なものが見つかる。私が初めて読んだのは、以下の今津氏による日本語訳であった。本エントリも、この今津氏訳を元に書き進める事にする。 archive.himazu.org
尚、同講演録については、私にとっては自傷行為などと言ってはいるものの、研究者を志す人ならば必ず読んでおくべきものだと思う。
情熱と傾倒
「私がまだプロレスを志してすぐの頃 私にはプロレスしかなかった」 「いや 自分にはプロレスしかないんだと思い込んでいました」 「実際は社会に参加することが怖くてプロレスに逃げ込んでいたのかもしれません」 「そうしたらある日気が付いて」 「本当に自分にはプロレスしかなくなってしまっていたんです」 --小林銅蟲 寿司 虚空編 三才ブックス
私には、この「寿司 虚空編」の登場人物「メの字」1の台詞が強く刺さる。
本講演におけるハミング博士の主張の一つに、偉大な研究を成し遂げるためには、その研究に対する情熱・傾倒が必要であるという事がある。それは生半可なものではない。無意識すらも研究の事を考え始める、即ち意識の中では常に研究の事を考え続けている程の傾倒が求められている。成果は複利であり、この傾倒の有無が最終的には極めて大きい差を作り出す。
その点で私には、上記の研究室活動が純粋に楽しかった時期においてすら、それ程までの傾倒は無かったように思う。サークル活動もせず、授業の空き時間や授業後の夕方〜夜には研究室に入り浸るという生活は、周囲の学生と比べればかなり研究に振り切ったものだったろうが、それでもハミング博士の言う段階には至っておるまい。一人暮らしのアパートに帰ればゲームなどして過ごしたりもしていて、それを変える訳でもないのに、上述のようにハミング博士の講演に憧憬を抱くなど、今思えば自己矛盾も良いところである。無論、ハミング博士の主張は研究以外に何もない人間になれというものではない。しかしそれでも、今から思い起こすに、私の傾倒は不十分だったのだと思う。
博士課程在学中にメンタルが挫けていた頃、ある時フランクに指導教官と話せるタイミングがあり、ふと「学部生の頃の私は何故あんなに元気に取り組めていて、論文を書く事まで出来ていたのでしょう。」と、半分以上が弱音の問いかけをした2事がある。指導教官からの回答は極めて単純明快で、学部生の頃は自分3がかなりサポートしていたから、であった。とても腹落ちする回答4だった。あの程度の傾倒具合で成果を出せていたのは、そのような下駄を履かせていただいていたからである。逆に言えば、その頃の私は、研究活動が面白いなどと宣いながら、真の意味でそれに傾倒していた訳ではなかった。本節冒頭に引用した「メの字」と同様な存在であった。
勇気
加えて思うに、当時の私の研究に対するあたり方、その動機もまた不純であった。当初は純粋に研究ネタが興味深かった5。そしてそのうちに、自分が成した事が認められる事への嬉しさが動機に加わった。それは具体的には、査読付会議への採択や論文の採録である。無論、採択・採録される事単体で研究の価値が証される訳ではないが、少なくともそれらは形を残すという点で分かりやすくはある。しかしこれを逆に捉えれば、それら分かりやすく形のある成果を出せなくなった時に、上述したように容易にメンタルが挫けうるという事でもある。
上掲の講演において、ハミング博士は研究者の勇気について触れている。重要な問題を解決出来ると信じて考え抜ける勇気であり、研究者に必要なものであると述べている。その勇気は必ずしも最初から持っているものとは限らず、一度の成功から得られる自信が、その後の研究活動における勇気の源泉たる事もある。氏は講演でその実例を二人紹介している。
当時の私の自信の如何に脆かったことか。上述の研究活動の動機に紐付いて私の研究活動における自信の源泉であったもの、即ち認められること、平たく言えば対外発表の採択・採録は、「自信」を「自ずから信じる」と読むなら、他者の評価に依存しているという点においてそもそも自信ではなかった。その脆弱な基盤の上に、ハミング博士が講演で述べるところの勇気は持ちえなかった。それに気付いたら、まさに上掲「メの字」が言うところの、それしかなくなってしまっていた、という恐怖感がやってきた。
その視点から振り返ってみれば、指導教官の佇まいには、研究上の課題について必ず解決できるという自信、もしくは必ず解決するという執着に近しい何かがあったように思う。それらは勇気を必要とするもので、私とは違ってそれをお持ちだった。この「私とは違って」というのも言い訳である。指導教官はその類の弱音には嫌悪感を持たれていて、そんな事を考える余地は存在せずただがむしゃらに取り組むしかない、というような事を言われた。それは全くその通りなのだが、それが出来ないという話で、私は挫けた。指導教官からすれば、自分が達成せんと無限の勇気で取り組んでいる研究室活動においてそのような腑抜けが足を引っ張っていた訳だから、私への当たりがキツくなるのも宜なるかな。
普遍性がある
ハミング博士の同講演では上記の他にも様々な事柄について触れているが、研究者くずれの私の身に特に強く刺さる凶器は上述の二点である。ここまで書いてみて、この書く行為もまた、やはり自傷行為だったように思う。正直に言って、改めてめげている。
一方で、上述の二点にしてもそれ以外の内容にしても、ハミング博士の主張はまさにその通りだと感じることには今も変わりはない。学部生の時に感じた、本講演が持つ燦然たる格好良さは色褪せていない6。そしてこの内容は、研究活動に限らず、課題解決に創造性を要する様々な仕事に共通に成立する普遍的な原則であるようにも感じる。学術研究のような先進性はないにせよ、今でも多少はその傾向がある仕事をしている身として、時折思い起こしたいものである。
余談 ー それでも逃げる選択肢
ただ、このハミング博士の講演の内容に忠実であろうとすると、物事から逃げられなくなるという問題がある。学術研究の世界を去った、というよりそこから逃げ出した身が言うと自己正当化にしか聞こえないが、逃げずに留まり続けて挫けて病むくらいだったら、早々に逃げ出した方が良い場合もある。病んでいるうちは何の成果もない。少なくとも私は、もっと早いうちから逃げる事を選択肢に入れておくべきだったとは思っている。
逃げているばかりでは大きな成果を成し遂げる事は出来ない。これはハミング博士の講演内容からしても明らかである。大学院時代に指導教官から散々言われた事でもある。しかしその一方で、逃げずに踏みとどまった結果として病んでしまっても同様である。その匙加減がとても難しい。