kolmas.tech note

雑記と思索、偏った技術の覚え書き

意図的コンテキスト放棄

先日、これまでの複数エントリで時々触れている自閉傾向の長男の発達検査のために児童相談所に行ってきた。目的は療育手帳の更新である。改めて考えてみると児童相談所の業務の幅は広い。

発達検査の結果では、実年齢五歳半近くに対して二歳七ヶ月相当という事で遅れ有り、療育手帳は再発行となった。とはいえ結果説明を聞いた所、ここ最近の伸びは結構正確に捉えられているようであった。それは、本人について我々親が感じる「伸びてきている感」にも合致している。そもそも、二年前の療育手帳発行時には最後まで検査を完遂出来ずに測定不能であったという事を思えば、極めて大きな進歩である。そんな発達検査であったが、結果説明において、ああ成程、と思った事があるので、ここに明文化してみる。

抽象概念理解

長男が苦手とする問いの分野として、何かしらの状況への対処、また抽象的な概念の理解があったとの事である。具体的な問いとしては、例えば「喉が渇いたらどうする?」という問いには何も答えられなかったという。尚、この問いへの想定回答は「水を飲む」である。

長男は、水を飲みたい時にはその旨を「お水飲む」と言葉で主張できる。これは具象の動作・行為を表す言葉である。一方で、確かに「喉が渇いた」という言葉は長男のボキャブラリには無い1。これは目には見えない状況を表す言葉であり、「水を飲む」と比べると、視覚に依らない感覚を表しているという点が異なる。それは外部から観測できないか、観測出来るとしても難しい個々人の内的な感覚であり、比較的抽象度が高いといえる。抽象度が高い概念の理解が具象の事物の理解よりも難しかろうという事は、容易に想像がつく。その点で、抽象概念の理解有無という視点が発達検査に含まれているのは道理であろう。

一方で、そんな事を考えている傍ら、この「喉が渇いたらどうする?」という問いに答えられなかった、という話を聞いた時に単純に思い至った他の考えとして、そもそも我々家族は「喉が渇いた」という旨の主張を口にする事がほぼ無いな、という事がある。大人同士での会話においてもそうだし、件の長男を含む子供らに問いかけるときも「お水飲む?」といった聞き方で具象行為について質問している。

大人はコンテキストを共有している

例えば私と妻との間で、どちらかが「水を飲んでくる」という言葉を発したとする。これはよくある場面である。そうすると我々は、相手が「水を飲む」という具象行為に向かっているという事を理解するだけでなく、「喉が渇いている」であったり「離席するのでその間の子供の相手等を頼む」といった言葉としては表面化していない意図の存在も同時に理解する。そのような共通の文脈・コンテキストを我々が共有しているからである。

もしくは上記例において「水を飲んでくる」という発言をしたのが私である場合、かつその場に私と妻しかいない場合、さらに私の口調が戯けている場合、妻は上記の意図に加えて更に「私が飲もうとしているものが実際には牛乳である」事を察するだろう。私は水の代わりに牛乳を飲むほどに牛乳が好きで、冗談で「『牛乳は水』教」2という表現をしている。無論、混乱を招くだろうから子供の前では絶対に使わない表現であるが、むしろそれ故、上掲の場面であれば妻には意図が伝わる。私と妻の間で、そのコンテキストが共有されているのだ。

牛乳の件に関しては最早言葉遊びであり極端が過ぎるが、前述のコンテキストについては一般的にも通じるだろう。このようなコンテキストの事前共有によりコミュニケーションは効率化される。即ち、直接に音声伝達される情報量を減らす事が出来る。中でも具象概念のみを直接伝達するのが最も効率が良いだろう。例えば妻が「喉が渇いている」と言うだけでは対応する具象行為に一意に紐づかない。そのとき妻が「水を飲んでくる」のか「カモミールティーを淹れてくる」のか「状態の表明だけで何もしない」のかは私には判断できないのである。これら具象行為の違いは、更に「離席するのでその間の子供の相手等を頼む」時間の違いに繋がる。

このように、コンテキストの事前共有のもとで具象概念について言及する事が、コミュニケーションの情報伝達効率の視点では最も望ましい。それ故、コミュニケーションにおいて実際に音声伝達される言葉は具象概念を表すものになりがちである。

コンテキストなき個別具象概念

この効率化コミュニケーションが成立する為には、あくまでもコンテキストの事前共有が必要である。一方で上記の抽象概念理解に関する話を聞いたとき、これが子供に対するコミュニケーションになると、そこには共有コンテキストがまだ形成されていないはず、という事に気付いた。

即ち、「お水飲む?」という我々の質問の背景には、長男の喉が渇いていないか知りたいという意図が当然あるが、この部分は長男には伝わっていない。そもそも、関わり合っている大人である所の我々が生活の中でその言葉を発しすらしない時点で、「喉が渇いた」という概念が長男に形成される筈も無い。自閉症児は他者の模倣で学ぶ事に難しさがあると言われるが、最近になって、長男には他者の真似をする事が増えてきたと感じる。しかしそもそも、真似るものがなければどうしようもない。そしてこれは、自閉傾向の長男だけの問題でなく、今のところ定型発達の次男にも当てはまりうる。もっとも、次男については保育園でも色々な言葉を吸収する機会があろうが。

長男は飲み物を水しか飲まない。そのため彼は、我々が喉が渇いたと言うところの不快感があった時には「水を飲む」と言えば良い。どうせ水以外飲まないので、「喉が渇いた」という概念理解を飛ばしていても、その不快感を起点にして得ようとする結果が一意に対応しているから、この点においてはコミュニケーション上の問題がないとも言える。一方で次男は水の他にも牛乳や豆乳、ジュース等、色々なものを飲む。そのような場合、「喉が渇いた」という表現ができなければ、個別に飲み物の名前を挙げて「〇〇飲む」と言うしかない。そう言われてしまうと、この〇〇を切らしている時には何もできない。「喉が渇いた」と言ってもらえれば、代替の何かはいくらでも提示できるのだが。無論、親であるところの我々は長男・次男の発言コンテキストを把握しているので、言葉が不十分でもそれなりに察することはできる。とはいえ、家庭外の環境3でそれは通用しない。

長男を療育で診てもらっている方に今回の発達検査の話をした時に、ああこれも同じ構造だな、と思ったものがもう一つある。長男は基本的にしょっぱい食べ物が好きである。言葉遊びのエントリで書いたスルメや味海苔、他にも鮭とばやサラミ、ベーコン、フライドポテト等。一方で長男はかなりの食わず嫌い4である。長男はあくまでもそれら個々の食べ物が好きなのであって、彼にとってはそれらが「しょっぱい」から好きなのではない=「しょっぱい」という概念が恐らく形成されていない。逆に、それらが「しょっぱい」ものであるという抽象概念が成立すれば、別の「しょっぱい」食べ物を、例えば我々が「これもしょっぱくて美味しい」などと言いながら導入する事が容易になる可能性はある。

見えないコンテキストに言葉を与える

このような目に見えない抽象概念、そしてそれが我々大人等の会話において言葉にされない暗黙のコンテキストになってしまっているもの、を理解してもらうには、やはりその時々においてその概念を指す言葉を我々から声かけしていく、という事になるのだろうと思う。我々にとっては、無意識的に依存している大人の会話のコンテキストを意図的に放棄する事になる。例えば長男にスルメを食べさせながら、単に「美味しいねー」と言うのではなく、「しょっぱくて美味しいねー」といったふうに声掛けをする等が考えられる。また、長男・次男も聞いていると思えば、大人同士の会話でもそうするべきだろう。例えば単に「水を飲んでくる」と言うのではなく、「喉が渇いたから水を飲んでくる」などとする。それを繰り返す。大人視点ではコンテキストを放棄してコミュニケーションの効率を下げる事になるが、ある種、長男・次男のコンテキストに合わせて会話をする、と言えるかもしれない。

ここで難しいのは、このような抽象概念・コンテキストの理解は恐らく線形分離できる課題ではないという事だ。今になって振り返ると、先日、ここまで考えていた訳ではないがそんな雑記を書いていた。 blog.kolmas.tech 以前に感想を書いた藤居氏の著書において、自閉症児の苦手とするものに非線形分離課題が挙げられている。この、抽象概念・コンテキストを伝える為に大人側がコンテキストを放棄するという話題、下手に進めると伝えようとする概念が長男にとって分離不可能、もしくは誤って分離されるようになってしまう可能性は感じられる。何でも一気に進めるのではなく、これから伝えようとする概念を何にするかを絞り込んで、それが他の概念と正しく分離できるように課題設計してやる必要がありそうである。例えば先程の「しょっぱい」の話題、下手な伝え方をすると、長男の中で「しょっぱい」の概念と「美味しい」の概念が等価になってしまう可能性などが考えられる。それは誤分類である。幸にして、長男の好物にはしょっぱくないものもあるので、それらも使って、こちらが関連概念をきれいに構造化した上で長男に伝える、という事をしなければならない。

ここまで書いてきて、この構造化するという話、機械学習における教師データを作る事との類似性を感じた。そう思うと、何だか普通のことだ。むしろ、そういった工夫もないのに抽象概念を理解できる人間の脳すごいな、と思えてくる。

余談 ー 平均は時に乱暴な指標

冒頭の発達検査の話題、実年齢五歳半近くに対して二歳七ヶ月相当、という結果だったのだが、その内訳は、一歳級の課題は全て出来る、二歳級・三歳級の課題は出来るものと出来ないもの有、四歳級の課題はほぼ出来ない、そしてそれを平均すると二歳七ヶ月相当、という事であった。ある意味、平均というのはとても乱暴なものである。上述した状況対処や抽象概念理解等の長男が苦手とする類の課題がある一方で、それよりもよく出来る類の課題もある訳だ。ただ平均すると、二歳七ヶ月相当という一つの値になってしまう。

平均する前の、分野ごとの得手不得手みたいな所もより詳細に結果を見せてくれれば良いのに、と思うところであるが、児童相談所の立場としてはそれは出来たとしてもしてはいけないのだろうな、という雰囲気はあった。


  1. 少なくとも今の段階で我々が観測する限りにおいては。
  2. 大学研究室時代、この牛乳愛を共有できる先輩が二人いて、私も含む三人の間で冗談で言い合っていたものである。読んで字の如く、水の如く牛乳を飲む教義。豆乳は邪教の飲み物。念の為、これは勿論冗談であるという事は重ねておく。
  3. 即ち、子供らのコンテキストが共有されていない環境。
  4. 長男の食嗜好傾向からして絶対に好きになるであろうものでも、初めてのものを食べさせるのはかなり苦労する。最初の一口を食べてくれれば後は食べるのだが、その「最初の一口」の打率は極めて低い。